ディナータイムのBun'kitchenは混みあっていて、美味しい料理を前にどの席も笑顔が溢れている。
俺たちのいるテーブル席以外は。
俺の話を聞いていた早智が急に泣き出し、俺のお冷を持ってきた店主が心配そうな表情を見せる。
店主 「…早智ちゃん、大丈夫? お水、入れようか?」
早智 「うわーん!」
(これは、優しくされると余計泣くやつだ)
満 「…あ、お願いします。あと、俺は…」
(こんな状況で飯を食うのもあれだけど、奏太が起きる前にさっさと食べた方がいいよな…)
満 「ボロネーゼのサラダセットをお願いします」
店主 「かしこまりました」
店主が去っていくと、早智はおしぼりで顔を豪快に拭き、涙と鼻水でビショビショになったマスクを新しいものに取り替えたあと、まっすぐに俺を見た。
早智 「話していいですか」
満 「う、うん…」
早智はコップの水をグイッと飲み、姿勢を正す。
早智 「これまでケンちゃんが私の家に来る時は必ず、事前に日時を決めていました。すれ違って時間をロスするのがイヤ、という理由もありましたが…。
見ての通り、私は普段こんな感じで。でもケンちゃんの前ではきちんとしていたいという思いがあってのことです」
(ケンゾーはこの姿を知らないのか…)
早智 「それが…それがですよ! 婚約した途端、ケンちゃんはその約束を簡単にやぶってしまったんです」
満 「あー…」
(なんかもうだいたい話はみえたな)
早智 「今日の夕方4時15分ごろの事です。休みだった私はゴロゴロしていました。すると急に玄関のカギ穴がガチャガチャと鳴ったんです。
もしや泥棒!? と、とっさにテレビリモコンを右手に持ち、おそるおそる玄関に向かうと」
満 「ケンゾーがいた」
早智 「…正解です。仕事でたまたま近くに来たらしくて、私が今日休みだと知っていたので驚かせようと来たというのです」
満 「合鍵、持ってたんだね」
早智 「婚約を期に、お互いの家の合鍵を渡し合いました。
それに関しても私は反対だったのですが、会う時に日時を決める、というルールが存在していましたので、大丈夫かと。油断していました」
満 「それで…早智ちゃんのOFFの姿を見られてしまった、と…」
早智 「その通りです。この姿だけではありません。足の踏み場もないほど散らかった部屋もです」
(おいおい、どんな生活してるんだよ…)
早智 「いつもなら…事前にきちんと片付け、ほこり一つないように掃除をし、ケンちゃんの好きな料理を下準備して、自分も綺麗にメイク、髪も整えて、服もケンちゃんが以前、可愛いと言ってくれたフェミニンなコーディネートで決めていたんです」
満 「それで…ケンゾーはどうしたの?」
俺の質問に早智が目をつぶる。
早智 「私が、片付けるね! ちょっとメイクするね! など慌てふためている間に、『…俺もう会社戻るわ』と言って出て行ってしまいました…」
(うわー、ケンゾー、ちょっとはフォローしようよ。)
店主 「お待たせしました。ボロネーゼとサラ(です)」
早智 「これまでの努力がすべて水の泡、とはこのことを言うのでしょうね!」
早智はカッと目を見開くと、店主が話している途中で言葉を発した。
店主 「…え?」
満 「あ、なんでもないんです。…いただきます」
トマトの酸味と牛肉の甘い匂いが食欲をそそる。
くるくるっとフォークに麺を巻き付け、再び話し出そうとする早智に俺はひるまずボロネーゼを味わう。美味い。
早智 「ゲームオーバーです。私は恋愛結婚というゲームに負けたのです」
満 「いや…でもそれが生活ってもんだから」
早智 「妥協したら負けです。私とケンちゃんはずっと恋人同士のような夫婦でいようねって決めたんです。おじいちゃんおばあちゃんになっても同じベッドで、ケンちゃんの腕枕で寝るって決めたんです!」
(少女マンガじゃないんだから…。こんな感じでも根が乙女なんだな、この子は)
満 「…あのさ、おじいちゃんになったらさ、腕枕、痛いと思うよ? あれは若いうちだけでいいんじゃない? それに…夫婦って恋人っていうか、なんていうか、夫婦だし。
結婚って生活するってことだし、子どもができたら家族になるし、相手のダメなところっていうか、弱さも含めて互いに受け入れていくのが結婚だと思うよ」
(なんか俺、いい感じに聞こえること言ったな)
俺の言葉に早智は何度もうなずく。
早智 「そうですか…そうですか…。経験者が言うならそうなのかもしれません。でもそうならば、私もケンちゃんのダメなところを知りたいです。いつも王子様みたいに格好良くて、でも子どもみたいなカワイイところもあって、良い匂いがして…。そんな完璧な人と釣り合えるか、私はいつだって不安なんです。だから私だけ弱みを見られてしまったら、もう…」
早智はゴンッ! と大きな音を立てて、机に突っ伏す。
満 「そっか…。じゃあ、ケンゾーくんにも弱さを見せてほしいよね」
(なーんて…さっきから偉そうに言ってるけどさ、俺。そういう自分はちゃんとキリに弱いところ見せられてるのかって感じだよな…。会社の今の状況も、話してないし。…でも弱音吐いたり愚痴ったり、威張ったりする夫なんてカッコ悪いだろ)
モヤモヤっとする気持ちを誤魔化したくて、食べるペースが速まってしまう。
早智はそんなことに気づかず、話を続ける。
早智 「というか、というかっ! 何も言わず、何もなかったように帰られたのがショックだったんですよ。片付いてないじゃん、とか、俺の前ではいつでも綺麗でいろよ、とか言われた方がマシです」
(え、言われた方がマシなの? 意外…)
満 「そ…っか。とにかく結婚するんだから、その前にちゃんとお互いの本当の姿というか、本音とかちゃんと見せないとやっていけないと思うよ」
早智 「…やってみます」
結婚とは、夫婦とは何か。
自分でも分かっていないくせに、なんだか分かったようなふりしてアドバイスする、という自分で自分に説教しているようなディナータイムが終わった。
奏太は途中で起きて、俺のボロネーゼの残りとフランスパンを食べた。
帰りはタクシーが捕まらず、呼ぶのも面倒で、奏太を抱っこしてバスに乗って川口元郷駅に帰って来た。
そこから自宅まで歩いていると、スマホが鳴り、母から電話が来た。
満 「どうした?」
満の母 「大丈夫かな、って思って」
満 「おう、サンキュー。なんとかやってる。あ、もしかしてまた父ちゃんに電話しろって、言われた? あれやれ、これやれって言われていつも母ちゃんは大変だよな」
満の母 「え? 何言ってるの。私は色々とお父さんに決めてもらって楽よ。お前だってキリコちゃんに色々決めてもらって楽してるでしょ」
母の言葉に思わず足が止まる。
満 「……」
満の母 「でも心配して電話したのはお母さんの考えだよ。手伝ってやれなくてごめんね。じゃあまたね」
奏太 「パパ、どうしたの? 奏ちゃんちいこう」
満 「…うん」
(お前だって楽してるだろ、って…。いや、選択を相手に与えることが優しさ、だろ? 亭主関白振りかざすより、自由にやったらいいよって…。俺は別に…)
心の中で言い訳しても、別の想いが湧き上って止まらない。
母の言葉が胸に刺さって、俺はとんがった薄い三日月を見上げた。