今度こそ落ち着いて夫と話そうと思っていたのに、だめだった。
どうしても感情的になってしまって、一方的に言ってしまった。
しばらく溢れていた涙が止まると、私はぼんやりと天井を見ていた。
(奏太が成人するまであと17年。お互いの気持ちが見えないまま、私たちは夫婦を続けていけるのかな…)
再び目頭が熱くなって涙がこぼれそうになった時、仕切りのカーテン越しに「こんばんは」と男の人の声がした。
? 「キリコさん、入って大丈夫ですか?」
キリコ 「…え、あ、はい」
慌てて手で涙を拭うと、カーテンが開き、そこにはケンゾーと早智が立っていた。
ケンゾー「………」
早智 「………」
二人は私の顔を見て、心配そうな表情になる。
ケンゾー「…キリコさん、急にごめんなさい。さっちゃんがメッセ送ってたみたいなんですけど…。痛そうですね…。また、今度にしよっか、さっちゃん」
キリコ 「え、ごめん。メッセ、気づかなかった」
慌てて枕元のスマホを見ると、早智から「お見舞いに行ってもいいでしょうか?」とメッセが届いている。
ケンゾー「また、来ますね…」
キリコ 「…あ! いいよ、いいよ。大丈夫だから…」
早智 「ぜんぜん大丈夫そうに見えません」
キリコ 「痛み止めの薬を飲んだから、今は落ち着いてるよ…。さっきまで痛くてさー、もー、泣いちゃった。どうぞ、どうぞ座って」
ケンゾー「じゃあ…すみません」
二人はパイプ椅子に腰を下ろす。
聞く耳を持たなかったのは、私の方だったのかもしれない/連続小説 第21話
66,413 View向き合う必要は感じていたのに、いざ話す場面になると、いつも通り言い争いになってしまったキリコと満。後味の悪い時間を過ごしていると、そこに早智とケンゾーがやってきた。そこでキリコは、自分の知らない満の想いや、会社で置かれている状況を知ることとなる。
ケンゾー「お見舞いに来たいと思ってたんですけど、なかなか来れなくて。また明日からちょっと忙しくなるので、今日、現場終わりに寄らせてもらいました。面会時間ぎりぎりにすみません」
(ちょっと今、笑顔で話せないメンタルだけど、わざわざお見舞いに来てくれたんだし、がんばろう…)
キリコ 「ううん、ありがとう…」
ケンゾー「それで、あの…今日、奏太くんのお迎えは大丈夫でしたか? それが気になってて…」
キリコ 「あー…パパが間に合わなくてママ友にお迎えに行ってもらったの。仕事、大変みたいだったねー。何があったのか知らないけど。…奏太、一日中、泣いてたみたいだから、パパにお迎えに行って欲しかったんだけどね。うまくくいかないもんだね、ハハハ…」
今一番、触れて欲しくないところをケンゾーがつつくから、隠しておきたい本音がぽろぽろとこぼれてしまう。
ケンゾー「すみません! それ、俺のせいなんです」
急にケンゾーが頭を下げるから、きっと私の作り笑顔は失敗していたのかもしれない。
キリコ 「…ケ、ケンゾーくん?」
ケンゾー「実は今日…」
ケンゾーは申し訳なさそうに今日起こったトラブルについて、私に話してくれた。
(そういうことがあったのね…)
ケンゾー「満さんがガーランドを届けてくれなかったら、マジで会社は終わってたかもしれません」
キリコ 「終わってたって…つぶれるってこと? 大袈裟じゃない? ハハハ…」
ケンゾーが真剣な顔で大袈裟なことを言うから思わず笑ってしまったのに、それでもケンゾーは表情を変えず、私の目をじっと見る。
ケンゾー「もしかして…会社のこと満さんから聞いてないんですか?」
キリコ 「…え? 会社……、マジでつぶれそうなの?」
髪をくしゃっと掻きながらケンゾーがゆっくりうなずく。
ケンゾー「うちの会社、依頼がすごく増えた時期があって、それで社長が一気にスタイリストとアシスタントを増やしたんです。でもそれが上手くいかなかったっていうか…。アシスタントのミスがかなり多くなって、弁償やらノーギャラやらそんなんが増えちゃったんです…。マネージャーの満さんは前々から社長に会社がやばいってことを聞かされていたみたいですよ。誰を切るとか、そういう話も出てたと思います」
(そんなことになってたんだ…。全然知らなかった…)
会社の状況やパパが背負わされているものを知って、私は面喰ってしまう。
ケンゾー「今日の依頼主のセノーチェは前に迷惑をかけた会社なんで、今日は本当に信頼回復のラストチャンスだったんです。なのにまたミスがあって…。それに子どもモデルの男の子が撮影拒否のトラブルもあったんです。それも満さんが解決してくれました」
ケンゾーの言葉に早智が「ふふふ」と笑う。
早智 「ケンちゃんから話を聞いて、さすが奏太くんのパパ! って思いましたよ」
キリコ 「…どうやって解決したの?」
(…聞かせてほしい)
ケンゾー「周りの大人が色んなことでどうにか泣き止ませようとしてもダメで、でも満さんは持っていた電車…東西線だったかな、それをその子に見せたんです」
(奏太の東西線だ…)
ケンゾー「そしたらその子が…なんだっけな、聞いたことないような電車の名前を言って」
早智 「なんか、関西の電車なんでしょ?」
ケンゾー「そうそう…本当に聞いたことないやつなんだ。確か、緑なんちゃら…」
早智 「なんだろうね。検索してみるね」
(あぁ、分かる。死ぬほどあのDVD見たから。私は分かるよ)
キリコ 「…長堀鶴見緑地線」
ケンゾー「あー! それです、それ!」
スマホで検索を始めていた早智が私の言葉に驚いた様子で顔を上げる。
早智 「すごい…」
ケンゾー「さすが子鉄のママ! ですね」
早智 「ケンちゃん、キリコさんの息子さんの名前は"奏太"くんだよ?」
ケンゾー「分かってるよ。電車好きな子を『子鉄』って言うんだって。満さんに聞いたの」
早智 「ほほー。覚えておきます」
キリコ 「パパ…会社で奏太の話をするんだね」
ケンゾー「いつもしてますよ。…あぁ、それで満さんもキリコさんみたいに『長堀鶴見緑地線』って言って、そしたらその子がすごくご機嫌になって、撮影をスタートすることができたんです」
(パパ…ぜんぜんDVDを見てないようで、見てたんだな…)
リビングでDVDを見ている奏太と夫が目に浮かび、その光景が恋しく感じる。
ケンゾー「満さんは今日ずっとスマホばっかり気にしてたし、現場でもソワソワしてました。きっと奏太くんのことが心配でたまらなかったんだと思います。それでも会社のために現場をまとめてくれて…。忘れ物したアシスタントも満さんに励まされて、良い仕事してくれました」
キリコ 「…そうなんだ」
ケンゾー「うちの会社、社長がワンマンなところがあるから、マネージャーの満さんがいなかったら、もうとっくにダメになってたと思います。みんな満さんについてってるようなもんですよ」
(パパって頼りにされてるんだな…。うちでは私に色々と言われてばかりなのに…)
私の知らない夫の話を、私は不思議な気持ちで聞いていた。
(だってパパ…ぜんぜん話してくれないから)
そう思った時、さっき夫が言った言葉が頭に過る――。
満 「ちょっと聞けよ、キリ」
(話してくれないんじゃなくて…私が聞こうとしてなかった…?)
自分の夫に対する態度に気づき、私は戸惑って胸が痛くなる。
ケンゾー「それで…会社がそんな状態だったから、俺、結婚しちゃって大丈夫なのかな、とか転職した方がいいのかな、とか悩んで、今日の昼飯の時に満さんに話を聞いてもらったんです」
キリコ 「へー………」
早智 「ケンちゃん、満さんに『一緒に転職しちゃいましょう』的なこと言ったらしいですよ」
少しうわの空になっていた意識が早智の言葉で我に返る。
キリコ 「転職? …パパはなんて答えたの?」
(仕事のことどう思ってるんだろ…)
ケンゾー「転職は絶対しないって言ってました。住宅ローンが組めなくなるからって」
キリコ 「住宅ローン…?」
ケンゾー「キリコさん、戸建てを探してるんですよね? 満さんも奏太くんにはのびのび戸建てで育ってほしいと思ってるみたいですよ。なかなか忙しくて実際には戸建てを見に行けてないけど、ちょこちょこネットで探してるって言ってました」
(…パパ、戸建ての事、ちゃんと覚えてくれてたんだ)
ケンゾー「あとは、結婚っていうのは妻子を養う覚悟が必要って言ってたな。だから何があっても頑張って仕事しないと、って」
キリコ 「……そっか」
ケンゾー「正直ちょっと古いなと思いましたよ。今はどっちが働こうが構わない時代ですから。でも俺、ずっと理想ばっかのところがあったんですけど、満さんにそういう話をしてもらって、じっくり考えてみて…。そういうの全部ひっくるめてもやっぱりさっちゃんと結婚したいなって」
早智 「…ケンちゃん♡」
ケンゾー「だから俺、さっちゃんと夫婦になります」
ケンゾーの晴れ晴れとした宣言に早智は穏やかに微笑んでうなずく。
早智 「がんばろうね、ケンちゃん♡」
ケンゾー「うん、二人で色々決めような」
見つめ合う二人をぼんやりと見ていると、早智がキリッとした表情になり、私を見る。
早智 「キリコさん満さん夫婦のおかげで、私たち新しい未来を描けそうです。時には理想とは違うことになるかもしれませんが、とことん話し合い末永く夫婦でいる所存です!」
キリコ 「所存って(笑)。…いや、私は別になにも」
話している途中で早智が急に立ち上がり、私は驚いてビクッとする。
早智 「あざしたっ!!」
キリコ 「…お、びっくりしたー。…ケンゾーくん、本当にいいの? 早智ちゃん、けっこう変わってるよ(笑)」
ケンゾー「知ってます(笑)」
早智 「ケンちゃ~ん♡」
キリコ 「…ですよね。よかった、うん、本当。幸せになってね」
(…私たちみたいにすれ違っちゃだめだよ)
ケンゾー「ありがとうございます。腰が痛いときにすみませんでした。満さんにもよろしくお伝えください」
キリコ 「…うん」
ケンゾー「じゃあ、行こうか」
早智 「うん」
二人が立ち上がり、個人スペースから出て行こうとすると、ケンゾーが「あ」と声を出し、振り返る。
ケンゾー「満さん、キリコさんとちゃんと話さないとな、って言ってました。痛みが引いたら電話とかしてみてくださいね。じゃあ」
二人が出て行くと我慢していた涙がこみ上げて、ぽろぽろと流れる。
キリコ 「…パパ、いろいろ考えてくれてたんだ。…なのに私はいつもいつも自分ばっかり頑張ってると思ってた」
(パパだって毎日、色々問題があっても仕事を頑張って…。踏ん張って…。それは私と奏太を養うため、将来のため…。私たちのことを考えていなかったわけじゃない。なのにさっき私は「奏ちゃんを後回しにできるパパの気持ちなんて分かんない」なんて…ひどすぎだ。さっきだけじゃない。私はずっとパパを傷つけてた…。パパは何にも考えてないって、勝手に決めつけていた)
夫も、私とちゃんと話さないと、と思っていたんだ。
私は涙を拭きながら、夫が置いて行った苺レアチーズを手に取る。
――このままじゃだめだ。前に踏み出さなきゃ。さっきの仲直りから、はじめなきゃ。
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