それは、夫が珍しく1日休みが取れた日の出来事だった。
その日は初めてともいえる3人揃ってのまともな休日だったが、出発するのが思ったより遅くなってしまい、結局近くのショッピングセンターに買い物に行くだけとなった。
100円を入れるタイプのキャラクター付きカートに子供を乗せると、その姿に愛らしさを感じたのだろう、夫は目を細ませる。
しかし私は、共に微笑む気にはなれなかった。
「そのカート、幅取って邪魔になるから買い物の間任せるね」
口早に伝えると、返事も待たず逃げるようにその場を離れた。
(やっと一人になれた……)
ホッとすると同時に、そんな自分にギクリとする。
いつからだろう。
最初は確かに可愛かったのに。愛しくて、こんなに大切なものは無いって思っていたのに。
今や私が息子に対して抱くのは、『育てなきゃ』という義務感が多くを占めていた。
(私、あの子を可愛いと思えていない)
実家は電車で2時間半。
引っ越して3年ちょっとと日が浅く、近くに親戚も知人もいない。
夫は良くて終電帰りで、土日も仕事。当然、育児にかかわる時間は皆無だ。
典型的な『ワンオペ育児』の日々を送っていたら、いつの間にか息子は首が座り、ハイハイし、よちよちと歩くまでに成長していた。
そんな二人きりの日々を淡々と繰り返している内に、私はゆっくりと、しかし確実に、『母性』と総称される感情を喪っていき、引き換えに、必要以上に『いいお母さん』を演じることに固執するようになった。
『いいお母さんは、毎朝掃除機をかけて部屋をきれいにする』
『いいお母さんは、食べないと分かっていても手間暇かけたご飯を作る』
『いいお母さんは、気分がのらなくても毎日児童館と公園に出かける』
やればやるだけ自信が無くなった。
でも止めてしまえば、もっと失ってしまいそうで、怖くてできない。
周りのお母さんはあんなに笑顔で接してるのに。眩しくて、情けなくて、交流を避けるようになった。
お母さんなのに。
お母さんのくせに。
久々にゆっくり思考する時間ができたせいだろう。
終わりのない考えを振り払いたく、食材をカゴに入れる。
(離れてる間くらいは、考えるのをやめよう)
無理やり思考を打ち切り、目線を上げた先。
そこに、私は釘付けになった。
年齢は自分の子供と同じくらいだろうか。
キャラクター付きのカートに乗った子供がこちらに向かってきていた。
(こ、この子・・・・・・・めちゃめちゃ可愛い!!!!)
さらさらとした艶やかな髪
白くて柔らかそうなほっぺた
すっと通った鼻梁
紅色の形のいい唇は、何か楽しいことがあるのか、にこにこと笑みを浮かべている。
(こんな可愛い子、初めて見た!!!!)
自分の子供にすら最近感じなかった思いに、興奮が抑えられない。
どんな人が親なんだろう?好奇心が赴くままに目線を上げる。
するとそこには、いつもと何の変化もない夫の顔があった。
・・・・・・・・・夫?
目線を下げると、やはりそこにはお人形さんのごとくかわい・・・
いや違う、これ、うちの子だ!!!!!
なんということだ。
散々可愛く思えないと悩み苦しんでいたのに、たった数分離れただけで、地上に舞い降りた天使と自分の子供を認識してしまうなんて。
(私・・・・・わたし・・・・もしかして・・・・・)
嫌な予感がする。いや、これはもう確信したといってもいい。
(めっちゃ疲れてる!!!!!)
そう。
無駄に気力がある私は、初期の段階の育児疲れを甘えと捉え、『こんな事で疲れるとは母親失格だ!!もっと頑張れ!!!』と、根性で今まで邁進してきたのだ。
そして自分の中にある理想の母親像に辿り着こうとし、当然できない事に失望する毎日。
更に焦り、無駄にタスクを積み重ね、どんどん自分を追い込んだ結果、子供に向ける感情すら認識できないようになっていったのだった。
冷静に考えれば、そこまで頑張ってしまったのは、全て息子が可愛くて、大切で、幸せにしてあげたいという思いがあればこそなのに。
不器用な私は、見えなくなっていたのだ。
憑き物が落ちる、とはこのことを言うのだろうか。
私の事を見上げ、ニコニコと微笑むわが子。
僅か数分離れた時間が、私に再び向き合う目を戻してくれた。
(可愛い)
そっと、つるつるとした柔らかい頬を撫でた。
帰り道。
ベビーカーを押しながら、夫にこんな自分を笑ってほしくて話し始める。
思えば、私の気持ちなんて、子供が生まれてから伝えてこなかった。
「私ね、さっきあなたがカートに乗せてこの子を連れてきたとき、一瞬誰だか分からなくて、すっごい可愛い子が来たー!って思っちゃったの」
言葉にしたら改めて、自分の親バカさに笑ってしまう。
そんな私に、夫は至極真面目な顔をして頷くと、
「そりゃそうだよ。だって、さっきのショッピングセンターにいた子供の中でも、この子が一番可愛かったし」
とても当たりの前のように、あっさりと言い放つ夫。
私以上の親バカがすぐ隣にいることに、その日何度目かの衝撃を受けたことは、言うまでもない。
ライター:しゅんたろ