「15分間隔だ。」
陣痛に気がついたのは、その晩、深夜1時を少し過ぎたところだった。
妊娠39週と1日目。
妊娠後期の妊婦らしく、もうかなり眠りの浅かった私は、あの軽い生理痛のような、下腹を引き絞る感じの鈍い痛みで目を覚ました。
いよいよか。
私は夫を陣発だ!起きろ!と叩き起こし、子ども2人を頼むと告げた。
実家も遠く、大人の手の足りない我が家では、このお産の流れを決めていた。
・私一人で病院に行き分娩する
・その間長男長女は夫が面倒を見る
・分娩終了後、合流
子ども達には
「ママが赤ちゃんを生んだ日も、学校と幼稚園に行って普通に過ごすこと。」
を約束させていた。
生まれた赤ちゃんはNICU搬送なので当日は会えないだろうし、この先入院や手術という未知の出来事に遭遇し続ける我が家にあって、子ども達には出来るだけ『普通』の生活を続けられるようにしていて欲しかったからだ。
そして
この後の私は、人生で3本の指に入るくらい勇ましかった。
あとの2つは何ですかと聞かれても答えられないけれど。
私はこの時、すやすやと眠る長男、長女の寝顔を見て思った。
母のしかばね..は超えなくていいけど、俺の生き様を見ていてくれ、子ども達。
ここまできたらもう、怖いとか何とか、そんな時じゃない。
次女を立派に生んで、NICUに渡してみせる。
文字通り腹のすわった私は、まだ間隔の遠い陣痛の合間に着替え、陣痛間隔を計測し、用意してあった入院用の荷物を掴み、大学病院に電話を入れた。
「陣痛10分間隔です、今から行きます。」
重い障害がある我が子の人生に「いいスタート」をくれた助産師の信念
106,058 View39週と1日目でいよいよやって来た陣痛に、なぜか脳内の川平慈英と松岡修造とで挑んだ出産編です。
妊娠~出産までをつづった4部作連載、これにて完結。
陣痛がきて、決意が固まった
「ひとりじゃない」陣痛タイム
そして夫が呼んでくれていたタクシーに乗り込んだのは、午前2時前だったと思う。
タクシーの運転手さんは、草木も眠る丑三つ刻に、ど真剣な顔の腹のでかい女が一人荷物を抱えて乗り込み
「大学病院までお願いします!」
と気合を入れて発車を促した事に、割とビビっていた。
そして、到着先した病院の救急入口の守衛さんも、ビビっていた。
「お母さん1人?」
「旦那さんは?」
「ここ初めてとかじゃないよね?」
「私一人です!さっき産科病棟に連絡を…」
まで言って、また次の陣痛が来た。
そうなると次の言葉が出てこない。
経産婦は陣痛間隔の狭まりが早い。
人の良さそうな初老の守衛さんは車椅子を持ってきてくれた。
一人で来たんか?大変やなおかあさん、と言って。
絶対訳ありの妊婦だと思われたと思う。
違うんです。
程なく、産科病棟からお迎えの助産師さんが駆けつけ、その車椅子ごと私を運んでくれた。
だが、その助産師さんも、救急の入口で片手に巨大なトートバッグ、背中にリュックを担いで陣痛に耐える私の姿を見て
「お母さん一人?」
と聞いてきた。
いいんです!
一人でいいんです!
突然脳内の川平慈英が叫んだ。
私はとにかく兎に角、この子を無事に生んで、新生児科のM先生に渡さないといけないんです!
あとあの「血が怖い」とか言う夫は、こんな時一切全く役に立たないんです!
お産臨戦態勢に入った妊婦の脳内は、無駄に勇ましい。
と言うか
多分この時、陣痛の痛みとこのお産に際して、これまで山積みにされてきたあらゆる不安を払拭する為に、何か変な物質が脳内を満たしていたに違いない。
陣痛室に運ばれ、ナースから渡された出産用の病衣や下着に着替えて、ベッドの上で一人段々と強くなる陣痛に耐える中。
今度は何故か松岡修造が脳内にやって来て
「頑張れ!君なら出来る!」
「君の限界は君が決めるんだ!」
などと、握りこぶしで励まされた。
事実、松岡修造氏は、奥様のお産に際して「勝負だ!勝負に出ろ!」と言って分娩室で叫びまくり、奥様を大いにキレさせたと言う。
ありがとう、煩い。
しかし脳内修造の応援のご利益か、5分間から3分間隔と、陣痛の進みはかなり早く順調で、夜明け前には破水し、ナースコールで自ら助産師さんを呼んだ。
この時、子宮口はほぼ全開。
そのまま車椅子で分娩室に運ばれた。
産声に…涙がでた
分娩室では、以前カンファレンスで対面した助産師のSさんが、慌ただしく分娩台の準備をしていた。
凄いスピードで分娩台の周囲を整え
「ハイ!お母さんここに乗ろうか!動ける?」
そう言いながら私を介助して分娩台に乗せてくれた。
「『いきんでいい』って言われたら出来るだけ早めに出します。」
私はそう助産師のSさんに宣言した。
その時の私は、次女が産道を通る間、出た後、あの色々欠けている心臓では苦しくないのか大丈夫なのかが気になってしまって、自分が痛いとかそう言う事は二の次だった。
だから、何回かの大きい陣痛を逃し
「ハイ!お母さん!いきんでいいよ!」
とSさんが告げた時には渾身の力でいきんだ。
「お母さん上手上手、もう頭出てきた!肩も出るよ〜あと浅く息して逃して〜」
「ハイ、出ました~!」
その一言からややあって、モスグリーンのシートに覆われた私の下半身から、生まれたての赤ちゃんが
「こんにちは!」
したのを確認した。
多分、結構大きい。
どうもはじめまして!母です!
次女は臍の緒を切り離されてそのまま、私の死角に入る場所にある処置用の台に行ってしまったので、私は何とかその姿をもう一度確認できないものかと上半身を起こそうと画策する。
「あーお母さん!胎盤出でくるからまだ動かないで!」
叱られた。
そうでした。
忘れてた。
でも後産が無ければ、分娩台からずるずると這い下りてでも、次女の身体やその表情を確認したかった。
大丈夫ですか?
心臓の他に何か起きてないですか?
顔色は?
しかし、私の心配を他所に次女は大音響で泣いていた。
ここまで声のでかい子は初めてかもしれない。
本当に病気なのか君は。
次女の処置をしているSさんとスタッフ達は私に背を向けているので様子がわからないが、どうも次女はこの段階で足をパタパタ動かして何やらスタッフを牽制している。
出生後も足癖が悪いな。
でもあれだけ動けているなら、今すぐどうという事はないだろう。
私はどちらかと言うと、昔から表情筋が薄いと言うか、恬淡とした人間で、小学校の成績表にも
「感情表現に乏しい。」
と割と辛辣な事を書かれたし、実際長男が生まれた時も、長女が生まれた時もそれぞれに嬉しかったが
「本当に人間が入ってた。」
だの
「これから宜しく。」
という感動味に欠ける感想を持ったタイプの人間だった。
でも、この時次女の一際大きな産声を聞いていた時は
少し涙が出た。
感情表現に乏しく、ついでに基本の思考回路がとても悲観的な私は、気合万遍で川平慈英と松岡修造まで脳内に引っ張り出してお産に臨みながら、何処かで
「この子は生きて生まれて来ないかもしれないな。」
という気持ちをずっと抱いていた。
これは胎児の先天性疾患を知ってお産に挑むお母さんなら、大体の人が密かに覚悟している事だと思う。
だから、あの大きな産声を聞けた時は本当に嬉しかった。
生きて産まれてきたねぇ
よかったねえ
これから大変だけど、がんばろう。
よし、お前は今からNICUだよ、大丈夫、行きなさい。
うまれてきたら「おめでとう」
次女の身体を簡単に拭き清め、体位の測定をした助産師Sさんは、私と他のスタッフに聞こえるよう大声で告げる。
「3154g、45.5cm、午前6時15分、女の子です。」
そのままNICU搬送のために待機していてくれた新生児科医のM先生と、NICUスタッフに次女を引き渡す。
のかと思いきや
「先生、3分、3分ください!」
叫ぶように言うと、くるりと踵を返して、自分の手に抱いていた次女を横になったままの私に抱かせてくれた。
「ハイお母さん!おめでとうございます。」
「女の子ですよ!」
私はこの時、多分次女の疾患が発覚してからここまでで、初めて人に
「おめでとう」
と言ってもらったと思う。
勿論Sさんは産前のカンファレンスに参加もしていたし、次女がどういう疾患を持って産まれてくるかを重々承知していた筈だ。
それこそ、出生から治療開始までの間が、結構な時間勝負である事も。
それでも助産師として私に「おめでとう」を言って、普通の子を産んだお母さんと同じように、ほんの数分でも次女を抱かせてくれた。
赤ちゃんの誕生は『おめでとう』だよ、それがどんな子どもでも。
そんなSさんの助産師としての心意気というか気遣いみたいなものが、私には分かった。
そしてその事がとても嬉しかった。
この事は、この『心臓疾患児を産む』という緊張と重圧から逆にドーパミンとアドレナリン過多になりながら、一人で挑んだお産の一番嬉しい思い出だ。
あの最後の数分間のおかげで、次女の人生は、疾患を抱えてはいても、とても良いスタートを切れたと思っている。
ありがとう、Sさん。
次女はそのままM先生に引き渡された。
私は、その直ぐ後に血圧が突然高くなってしまって少し朦朧となり、引き渡す瞬間を何度思い出してもはっきり思い出せないが、Sさんを介して次女を手渡す時
「宜しくお願いします。」
とM先生に分娩台の上から頭を下げると、M先生がいつもの優しい感じで、微笑んでくれたことだけは覚えている。
「あの日」が今日に、続いている
その後、次女はNICUに運ばれ、そしてNICUから小児病棟、手術室からICU、そしてまた小児病棟を渡り歩き、いや歩きはしてないけれど、退院して帰宅が叶うまで4ヶ月半を要した。
次女が生まれたという知らせを、あの日の朝、起き抜けに聞いた当時小学3年生の長男は、布団に突っ伏して泣いたそうだ。
その時の気持ちを小5の今聞いてみたが
「知らん!」
と言って教えてくれなかった。
長女は、あの日の朝ごはんはコーンスープとは教えてくれたが、やっぱりあまり覚えてはいないらしい。
この長男も長女も次女に極甘で、次女は帰宅した4ヶ月児の頃から少し歳の離れた2人の兄姉に甘やかされて増長し、今やすっかり気の強い我儘放題な性格になりつつある。
次女は、M先生が妊娠30週目に私に重々しく告げた『最低でも3回は必要』な手術の内2回を乗り越えた。
あの運動会の日に息子と約束した『運動会は次女と一緒に走る』まで、あと1回を残すところまで来たのだ。
1歳11ヶ月の今は在宅酸素と言って、鼻につけた細いチューブで酸素を吸入しながら暮らしてはいるが、次女と過ごす毎日は
割と普通だ。
それが今は一番嬉しい。
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