長女は予定日を二日後に控えながら、緊急帝王切開での出産だった。
妊娠九ヶ月を迎えたあたりから、主治医に「胎動が少ないのが気になる」と言われていた。
私より少し年上のその女医先生は、診察の度につけるNSTの波形をいつも険しい顔で睨んでいた。
「でもね、お風呂上りとか寝る前とかにはぼこんぼこん動いているんですよ」
なるべくなんでもない風に話すと、なら大丈夫だと思うんだけど、でも胎動カウントを忘れないでね、と先生は言った。
胎動カウントというのは10回の胎動を感じるのに何分かかったか測定するというもの。
10回あたり、おおよそ30分以内で問題なしと判断する。
自宅で行う胎動カウントはいつも問題なかった。
ほうらね、元気じゃないの、と私は信じて疑わなかった。
その頃の私は今思うと、うんと無知でうんと呑気だった。
私が知っているサンプルなんてほとんど母しかなくて、その母が三人元気に産み落としたからといって、私も同様に三人ほど元気にすぽんと産み落とすものだと思っていた。
けれど、何度か診察を重ねるうちに、主治医の表情はどんどん険しくなり、予定日の二週間ほど前には、入院するまでになった。
「24時間の波形をとりたいから」
ということらしかった。
里帰り出産でお世話になっていた実家には、心配性の権化みたいな、当時89歳のおばあちゃんが住んでいた。
おばあちゃんに余計な心配をかけると、すぐさまお寺や神社に電話をして、私の名前でお祓いをさせるに決まっている。
なんといっても、彼女の生きがいは「心配」だから。
お祓いってやつはお金がかかるのだ。
なんでもないはずのことに気を揉ませるのも、年金を注がせるのも大変申し訳ない。
ここはなんとしても、おばあちゃんに事態を伏せて入院しよう、と母と心をひとつにした。
そんなわけでおばあちゃんには「おなかの赤ちゃんを大きくするために、ちょっと入院してくるね」と、いかにもカジュアルな感じで伝えておいた。
そんな入院あるんだろうか。
実際、入院と言われても、私の胸中はまだまだ呑気だった。
気分はカジュアル入院という感じ。
病院でゆっくり本でも読もう。
寝たいときに寝て気ままに過ごそうかな、くらいにしか思っていなかった。
その病院に同じく妊婦検診で通っている友達が、病室に遊びに来てくれたりして、すこぶる楽しい入院生活だった。
先生もある程度の胎動を確認すると、退院許可を出してくださって、ほうらね、大丈夫だ大丈夫、と思いながら私は退院した。
ところが、予定日を間近に迎えたある日の検診で先生はやっぱりまた、険しい顔をした。
「胎動が少ない」
そう言うと、「明日、念のため入院準備をして、もう一度病院に来てほしい。その時に判断する」と続けた。
ところがだ。それでもなお、なお、私は呑気だった。
無知ってほんとうに恐ろしい。三人産んだ今だったら、そうはいかない。
お産がどれだけ命がけかということ、お産に絶対はないということ、いのちの灯は、ときに驚くほど儚いこと、あらゆることを知ってしまった今なら、きっと不安と恐怖で眠れぬ夜を過ごしたことだろう。
だのに、そのときの私ときたら、母の「大丈夫よ」の励ましの言葉を真正面から「そうかだいじょうぶなのね」と驚くべき素直さで受け取って、安堵しまくっていた。
妊娠中はエストロゲンが大量に放出されて、楽観的になると聞いたことがあるけれど、それにしたって楽観的すぎる。
翌日、新たに計った胎動の波形を見た先生は、私の目を見てはっきりと「これは普通じゃない」と言った。
その時ようやく私も、「え、まじで」くらいには思った。
そして、先生は「このままじゃ危ないので、緊急帝王切開を行います」ときっぱりと言った。
「このままじゃ危ない」その言葉が急に、私の脳天から、ずぶずぶと大きな針になって刺さってきた。
このままじゃ危ない、このままじゃ危ない、このままじゃ危ない。
つまりそれって、死ぬってこと…?
入院になるかもしれないということで、付き添っていた母が、「いやでも先生…」となにか言いかけたけど、お静かにしてもらった。
母が経腟分娩にこだわっていたことは、よく知っている。
でも、いよいよ私にだってわかる。どこから産むかなんて今はどうでもよすぎるのだ。
だって、つまり、腹の子が死ぬかもしれない。
「ご主人にも来てもらえるなら、連絡して今すぐ来てもらって」
先生の声は緊迫感を増してくる。
今朝までの呑気だった自分は、どこへ行ってしまったんだろう。
不安と恐怖で涙が出た。
300km離れた夫に連絡を済ませて、病室に入った。
手術の同意書をあれこれ書いて、ベッドの中で呼ばれるのを待つ間、母が経膣分娩がどうとかぼやいていたけれど、適当になだめておいた。
今は、お腹の子が無事に産まれることだけが、大事なのだ。
ようやく手術の準備が整って、手術台に寝かされたとき、私の中には、さっさと腹をかっさばいてくれ、という武士の精神が宿っていた。
ただ、武士は寒かった。
手術中は素っ裸に、布らしきものをかけられている程度なので、とても寒い。
みんな服着ててずるいな、と思うくらいには、恐怖が消えていたらしい。
寒い寒いと思っているうちに、産声が聞こえて、赤ちゃんの顔が見えた。
「ああ、生きてる。ほんとうに人間が出た…」
お腹を出たら安心した。
もし、この子に何かあっても、もう医療を受けることができる。
そのことが急に心強かった。
お腹の中にいては手も足も出せないわけで、私の身体以外は、この子の命の舵をとることができない。
そのことが、どれだけ重くのしかかっていたかを痛感した。
あの時の気持ちを、ひと言で表すならば、やはり「安堵」に尽きる。
産後しばらくは、長女が産まれたあの強烈な安堵がフラッシュバックして、そのたびに「ああよかったよかった」と、おめおめと泣いていた。
産まれてきた長女は、よく寝て、よく飲む、元気な赤ちゃんだった。
お医者さんも看護師さんも「あれはよく寝ていただけだったのかしら」と、呆れ顔で言うくらい、よく眠る子だった。
大きな病気もけがもなく、現在七歳、すくすくと育っている。
手も足もにょきにょき伸びて、お洒落をするようになって、すっかりおねえさんだ。
生意気さに腹が立つこともあるし、なかなか宿題をやらなくて、イライラする日もあるけれど、あの日の強烈な安堵が脳裏をよぎると、「よくぞ産まれてきたよね」と、わりとどうでもよくなったりするから、都合がいい。
そっぽを向く日も、なめた口をきく日もあっていい、だからどうか、現世にしぶとくしがみついていてよね。
あの日、生と死を一気に垣間見た母は、そんなことを、今でも寝顔を見るたび思うのだ。