長女が産まれてから、もうすぐ9年が経つ。
子育て1年生だった頃の私が聞いたら、「なんて頼もしい」と思うかもしれない。
首も座らなかった赤ちゃんを、ランドセルを背負う小学生にまで大きくしたなんて、すごいすごい、と思うだろう。
両方のおっぱいを、均等に飲ませることさえできなくて、右往左往していたあの頃、私は目の前の赤ちゃんが、歩いたり走ったり喋ったりするところなんてもちろん、今抱いている赤ちゃんの体重が5㎏を迎えることすら、にわかには信じがたかった。
そんなこと、ほんとうにあるんだろうか、と思っていた。
今、長女は首だって座っているし、固形物だって食べられる。
生ものだって食べられるし、「おしっこだいじょうぶ?」と訊かなくても、自分の意志でトイレに行くし、イヤイヤ言って泣いたりもしない。
赤ちゃんも幼児も、すっかり終えてしまった。
そこまでたどり着けばあとは楽勝、自走する生き物、私は身軽!そう思っていた。
歩きたがらない長女を抱っこしていたあの日、離乳食を盛大にこぼしていたあの日、トイレに行き渋ってお漏らしをしていたあの日、私は、今のこの場所を目指して、ひた走っていたんだった。
そして、そこは悩みひとつない、楽園みたいな場所だと信じて疑っていなかった。
ところが、ふたを開けてみたらどうだろう。
母の悩みはちっとも尽きない。
それどころか、雪だるま式に増えているような気がする。
そして、はたと下のふたりを見てみれば、長女が幼稚園児だったころに、悩んでいたり疲れ果てていたほとんどが、どうでもよくなっている。
イヤイヤすることも、なかなか着替えないことも、すぐに牛乳をこぼすことも、うっかりお漏らしすることも、ぜんぶ、とるに足らなくくなってしまった。
ほとんどは「あらまあ」か、「まあいいか」、せいぜいが「困ったなぁ」、で片付いてしまう。
じゃあ、なににおろおろしているのかと言えば、やはり長女のことがほとんど。
長子っていうのは、親からしても、轍のない道を走っているものだから、今がどういう状況なのか計りかねることがたくさんある。
実は、先日、長女が学校に行きたくないと言った。
「行ってきます」と言ったあと、一歩を踏み出すはずの長女の足がぴたりと止まった。
どうしたの、と訊ねると、長女はさえない表情でうつむいた。
「学校行きたくないの?」と訊ねると、大きな眼から涙がぽとぽとこぼれる。
一旦、長女を部屋に入れて、ぎゅっとする。
ぎゅっとするほど、涙はとめどなくあふれてくるようだった。
ここのところ、少しお友達関係で悩んでいたことは知っていた。
夜寝る前なんかに、ゆっくりお話をして、その都度「そっか!」と元気な顔を取り戻していた長女だったけれど、なんだかうまくいかない学校生活に、ちょっと頑張れない、そんな気持ちになったんだと思う。
「お休みする?」と訊ねると、長女は小さく「うん」と頷いた。
身体がしんどいときはお休みするんだから、心がしんどい時だってお休みしていいに決まっている。
今日はお休みにしよう、と明るく言うと、長女はほっとしたような表情を見せた。
さて、初めてのことはいつだって未知。
こういうときはどうしたらいいのと、考えた。
子育てってほんとうに人間の試験の連続みたいだな、と思う。
答えがない、人間という教科の抜き打ちテスト。
そして、そのテストは答えがないんだから当然、答え合わせもない。
ないけど、選びようのないとても大切ななにかを、常に選ばないといけない。過酷。
先生に相談する?の前に、まずは長女にヒアリング?していいの?静観するべき?、なるべくライトに、深刻に受け止めすぎてはいけないよね、あ、そうだ、今日という日は楽しい1日にすることもお忘れなくだね、というか先生よりもスクールカウンセラー?、養護教諭????????
頭をぐるんぐるんと巡らせて、まずは長女と少しお話をする。
なんてことない会話から、やっぱりぽろぽろと出るのは近頃のお悩みだった。
やはりお友達とのことでちょっぴり困っているらしい。
誰が悪いとかそういうことでは全然なく、ちょっとした窮屈さみたいなそういうこと。
小さな小さな、「なんだか困った」が積み重なって、少し疲れてしまったようだった。
テレビを観たり、ピアノの練習をしたりして、長女は気ままに1日を過ごしていたけれど、時おり、「ズル休みしちゃった」と気まずそうに笑う。
その都度「身体の調子が悪いときはお休みするんだから、心の調子が悪いときもお休みするんだよ。ちっともズル休みじゃないよ」と何度でも言った。
彼ら世代の人生は、順当にいけば我々のそれより、うんとうんと長いから、身体も心も消耗しないで大事に使っていってほしい。
我慢することや頑張ることの、うんと手前に、自分を大事にする術を身に着けていてくれたらな、と思う。
そうやって、できる限り、愉快に穏やかに暮らしていほしい。
そう思うのは親のエゴになるだろうか。
翌日、長女はするんと登校して、とっても元気に帰ってきた。
「どうだった?」と訊ねると「いつもと一緒だったよ」とクールに言ったあと、あれこれと話を続けてくれた。
話すほどにお顔の血色がよくなって、ああ、今日という日がとてもいい日だったんだな、とすぐに分かる。
長女の話の中に、少し勇気を出してみたこと、少し視点を変えたらすっごく楽しかったことがあった。
ひとつ殻を破れたのかもしれない。
彼らはまだまだ発展途上で、こんなふうに見ている景色を壊したり直したりしながら世界を広げていくんだなと思った。
頼もしくって、くらくらする。
くらくらしすぎて、なんだか涙が出ちゃいそう。
長子はいつだって、親にとってはほとんどすべてが未知で、たくさん動揺したり落ち込んだり悩んだりしてしまうんだけれど、たまにこんなボーナスみたいな瞬間がやってくる。
ピンク色のほっぺたで、今日のできごとを話す長女はとても眩しくて、とても逞しかった。
この先きっと、私はいくらでも動揺してオロオロするんだろうけれど、そうか彼女はこうして少しずつ逞しくなっていくのだな、と思った。
そのことは、私にとっても勇気だった。
学校でのことは、またふりだしに戻るかもしれないし、また別のなにかがあって、もう絶対に学校には行きたくないと泣く朝もあるかもしれない。
そんないつかの日、あのピンク色のほっぺは、きっと私のお守りになる。
肝っ玉母さんには程遠いけれど、そうして彼らの背中を「きっと大丈夫」と押してあげられたら、脆弱な神経の私にしてはおそらくたぶん、上出来なんだろう、と思う。