私は、決して聡明な人間ではないのだけど、どうやら記憶力だけはいい。
2歳くらいから、おぼろげながらも記憶があって、3歳を過ぎたあたりから記憶の彩度はぐっと高くなる。
仲の良かったお友達のことも、おゆうぎ会のことも、おうちごっこでのつまらない喧嘩も、保育園の床の感触も、履いていた長靴も、ありありと思い出せる。
小学校へ上がって以降の記憶なんて、先週の記憶より鮮明だ。
2歳ごろから記憶があるので、つまり私はイヤイヤ期の記憶を持っている。
あの訳が分からない、イヤイヤ期の複雑な心境にも、実はちゃんとではないけど、それなりに理由があった。少なくとも私はあった。
あれは、私がつくし組さんだったころ。
季節はたぶん初夏。
私、2歳半くらい。
あの頃、私は毎日、うんざりしていた。
母が差し出す服にだ。
毎朝、母がタンスの前に私を連れて行き、着替えをさせてくれていたのだけど、母が提案する服がいつも、野暮ったくてがっかりしていた。
綿素材のいわゆる「汚れてもいい服」。
そんなものを着せられるのが、本当に嫌だった。
私はかわいい服が着たいのに。
毎日毎日「ああこれか」と、小さく落胆していた。
服ってのは、母が選んだものを着せられるものだと思い込んで、生まれてからの2年を生きていたから、最初のうちはがっかりしながらも受け入れていた。
だけど、ある日どうしても我慢ができなくなってしまった。
堪忍袋の緒が切れたみたいに。
「毎日毎日、うんざりなんだよ!!!たんすのはじっこある、イチゴがついた、あのかわいいおようふくを出せ!!!!」そんなふうに思ったのだ。
思ったんだけど、あいにくまだ2歳なので、言語化する力がとても弱い。
そして、服は用意されたものを着るという、産まれてから曲げられたことのない小さな、けれど大きな私の常識が邪魔をした。
そういう世の中だとは知っているんだけど、うまく言えないんだけど、それでも抵抗したかった。
それが、イヤイヤの正体だった。
イヤだ、と言って母が出した黄色いTシャツを突っぱねた。
母が「じゃあこれは?」と、違う服を差し出しだのだけれど、それもまた、野暮ったい薄汚れたTシャツだった。
それも嫌だとそっぽを向いて、母はまた違うTシャツを出して、それもまた嫌だと言って抵抗した。
イヤだイヤだと言いながら、私はずっとイチゴの刺繍がついた、愛らしいブラウスのことばかり考えていた。
白くてハリっとした素材がとても可憐だった。
胸元に散らばる、小さなイチゴの刺繍がお姉さんらしかった。
袖がバルーンになっていて、まるでお姫様のお洋服みたいだった。
「イチゴのブラウスが着たい」そう言えたらよかったのだけれど、なんせうまく言えない。
そこは、しょせん2歳の言語中枢だ。
2歳ながらに、なんか知らんけどイチゴのやつはダメなんだな、ということくらいはおぼろげに理解していたのだけど、なんでだめなのかが分からない。
そして、なぜだめか分からないゆえに、うまい交渉の仕方が思いつかなかった。
今なら、きっとよそ行き用の服だったのだろう、と想像がつくのだけど、2歳にはそこまで分からないのだ。
けれど、その日は突然やってきた。
その日、どういう風の吹き回しか、母が突然「好きな服を選んでいいよ」と、私をタンスの前に連れてきて、ふらりと部屋を後にした。
タンスの前には、私ひとり。
私にとって、千載一遇のチャンスだった。
今なら、母の目を気にすることなく、イチゴのブラウスを着られる、そう思った。
おそるおそる引き出しから、イチゴのブラウスを取り出して、袖を通した。
ボタンがないすっぽり被る形をしていて、簡単に着られた。
胸元のイチゴが、それはそれはかわいかった。
あの高揚感と緊張を、よく覚えている。
別室の母のところへ行って、服を見せた。
首から下を壁のうしろに隠して、そぉっと見せた。
「いつもの服じゃないから、ダメって言われるかもしれない」と、少し不安だった。
母は、服を見て、怒るでも不機嫌になるでもなく、「じゃあ保育園行こうか」と笑った。
そして、その後20年以上経ったある日、私は母の真意を知ることになる。
当時の連絡帳が出てきたのだ。
「ここのところ、服を着替えるときにあれもイヤこれもイヤで、困っています」と書かれてあった。
日付を見ると、6月28日(土)。確かに初夏だった。
そして、それに対して担任の先生から、「自分で選ばせてみたらどうでしょう」というお返事がついていた。
そして、週明けの母「今日は自分で選ばせたら、ご機嫌です」。
そして先生、「かわいいイチゴのお洋服だよ、と言って嬉しそうに見せてくれましたよ」。
あの日の私の葛藤と、成功の裏には、こんなことがあったのか、と驚いた。
母が、急に服を選ばせてくれて、運が回ってきたような気持でいたけれど、あれは先生からのアドバイスだったというわけ。
母に訊ねたら「そんなことあったっけ」という、呆気ない返事だけが返ってきたけれど、私にとってはあのイチゴのブラウスを着られた日は、まるでスポットライトが当たったみたいな、明るいおめでたい日だった。
その後、私の記憶では、あのブラウスを着たいとは言わなかったことになっている。
ほんとうなら、保育園に着て行ってはいけない服だと、どこかで理解していたから、一度着られたことで満足した。
もしかすると、なにかを察した母が、野暮ったくない服をいくつか与えたのかもしれない。
他にも、同じころ、朝食のメニューが気に入らなくて、駄々をこねて泣いた記憶もある。
それもやはり、私なりの事情があって、だけどそれをうまく言語化できず、まかり通らない理屈と知りながらも、どうしても譲りたくなかった。
最終的に、泣いて喚いたけれど、そんな自分を俯瞰で見ているようなもうひとりの自分もいた。
なぜか、泣いていた私を真上から映したような映像が、今も脳裏に浮かんでいる。
もしかすると、イヤイヤ期ってエネルギッシュに駄々をこねているけれど、内心は意外と冷静なものなのかもしれない。
ヒーヒーと、呼吸困難みたいに泣きながらも、「あー苦しいなぁ。でも泣きたいんだよなぁ。」とか、たぶん思っているんだと思う。
あの頃の記憶があるから、イヤイヤ期には冷静に対応できていたかと言われたら、全然そうじゃない。
特に長女のときは、一人目ということに加えて、まったく私とは違うタイプのイヤイヤだったから、ただ疲弊した。
彼女は、ぐずるとか泣くとかがなく、ただにこにことご機嫌なまま「やだ」をえんえん繰り出すタイプだった。
こちらとしても、お気持ちを量りかねるし、表情はいたって穏やかなので、「そうか」と答えるしかないのだった。
そんなふうに、100人いたら100通りのイヤイヤがあるのだから、こんな記憶はさして役に立ちはしないのだけど、どこかでイヤイヤと仰け反るお子さんと、この文章がピタッと重なって、ジャーンと視界が開けるなんてミラクルがあるかもしれない、と淡い期待を胸に、この文章をネットの片隅に置いておくよ。