これは、懺悔のお話。
5年前、長女4歳のお誕生日のこと。
この日の写真を見返すたびに、胸がきゅうと縮んでしまう。
あの日の私は、ほんとうに未熟でちっぽけだった。
今、我が家の末っ子が4歳。
いけないと知りながら、つい赤ちゃん扱いをしてしまう。
本人はすっかりお姉さんだと思っているので、申し訳ないことなんだけど、例えば「おすし」が「おすき」になってしまうとき、夕方車に乗ってこてんと眠ってしまうとき、童謡に合わせてくるくる回っているとき、一生懸命書いたひらがなが鏡文字になっているとき、そんな長女や長男から消えてしまった残像をみると、ついつい眉毛が下がってしまう。
ああ、まだそんなに小さいのね、と思う。
とっくに通り過ぎた、あの日の小さかった長女や長男が、目の前を横切る。
そうか、あの日の彼らはこんなに小さかったのか、と今さら気づくことのなんと多いことか。
長女が4歳。
4月生まれの彼女は、年少さんにあがってすぐに4歳になった。
その頃、すでに真ん中長男は、間もなく2歳というところ。
「お姉ちゃん」歴は、2年が経とうとしていた。
私にとって、長女はすっかりお姉ちゃんだった。
真ん中長男は、まだまだ駐車場をミニカーみたいに走ってしまうし、午後はお昼寝をしないといけない。
まだおむつを履いてもいたし、あらゆることに、それなりの介助が必要だった。
手のかからない子だったけれど、それでも長女に比べたら、彼は「赤ちゃん」で、長女はやっぱり「お姉ちゃん」だった。
これは仕方のないことだけど、長子って、ついできるようになったことばかりを数えてしまう。
首が座った、寝返り、ハンドリガード、ずりばい、つかまり立ち……赤ちゃんが、いろんなことをパタパタとできるようになっていく姿は、やっぱり眩しくて、初めての子育てだもの、それらをひとつずつ追いかけてしまう。
そうしているうちに、長女はいろんなあれこれが「できるようになった」生き物になっていって、トイレも食事もお着替えも自立した4歳なんて、すっかりめっきりやっぱり「お姉さん」だった。
幼稚園へ行くなんて、社会へ飛び込むなんて、足元にまとわりついている1歳から見れば、どうしたって「お姉さん」。
できることを、ひとつずつ数えるのが長子だとしたら、できないことを数えてしまうのが末っ子。
言えない「し」の音に、いちいち歓喜してしまうし、うまく書けないひらがなの「え」の不格好さに、酔いしれてしまう。
自称お姉さんからほとばしる、4歳の幼さをかき集めて、お姉さんの部分を直視しようとしないで、私は末っ子を幼い幼いと愛でてしまう。
成長を喜ばれた長女と対照的に、末っ子はいまだにできないあれこれが、日々の喜びになるなんて、どうしたことだ。
よく私の母が「同じように育てたのに云々」と言うのだけど、そんなことあるだろうか。
同じようになんて、できっこない。
ひとり目そうそう、「まだなんにもできないのねぇ」と愛でるなんて、人生で初めての命の塊を目の前にして、できっこない。
生命力に、日々眩暈がするようなあの強烈な日々を、そんな悠長に過ごせやしないのだ。
「できた」の感動って、初めての子育てにおいて、大きすぎる。
前置きがとても長くなってしまったのだけど、そう、長女4歳のお誕生日の話。
半年ほど前だったろうか、長女4歳のお誕生日の写真を引っ張り出してきて見て、驚いた。
そこに映っていたのは、私が「お姉ちゃん」だと思っていた、うんと幼い長女の顔だった。
私の記憶の中の長女とのギャップに、驚いた。
「お姉ちゃん」だと思っていたのに、こんなに小さかったの、と愕然とした。
まだほっぺがふっくらとしていて、毎朝登園で泣き散らかしているせいで、目が腫れている。
それでも、ケーキを前にして笑う姿がなんていじらしいんだろう、そう思うとなんだか泣きたい気持ちになった。
隣で見ていた長女が「このケーキ、ばーばが送ってくれたんだよね」と、懐かしそうに笑っていたけれど、私は長女に申し訳なくて笑うことができなかった。
あの4月、私たち一家は新居に引っ越して数日で、まだ段ボールがそこかしこにあった。
4歳と1歳を引き連れての引っ越しは、ほんとうに大変で、身も心も削られていた。
さらに、長女は登園渋りが激しくて、毎朝1時間以上泣き喚く上に、夜も激しい夜泣きをしていて、私はおそらく余裕がなかったんだろう。
それでも、お誕生日だけはどうにかそれらしくやりたいと、小さくご馳走を作って、実家から送られてきたアイスケーキを囲んで、お祝いをした。
あの日、私は、遊んでいてなかなか席につかない長女に、厳しい言葉をかけたのを覚えている。
せっかくのお誕生日なのになんてこと。
毎朝頑張って登園している、お目目を腫らした、いたいけな子に対してなんてこと。
今だったらもっとおおらかな気持ちで、声をかけられるのに。たったの4歳だもの。うんと小さい4歳だもの。
うんと小さい4歳が、懸命に慣れない生活を送っている日々の中の、たった1日の晴れの日を、もっと大袈裟なくらい盛大な気持ちでお祝いしてあげたかった。
あの日の写真を見るたび、胸が痛い。
あの日に飛んで行って、疲弊していたあの日の私をそっとお布団に寝かして、飛び切りのご馳走を作りたい。
4歳の長女を抱きしめて、「小さいのに毎日頑張ってすごいね」って言ってあげたいし、よしよしして、なでなでして、お箸を持っても、ごはんを食べても、ケーキを食べても、全部にじょうずだねって言ってあげたい。
一挙手一投足、ぜんぶを褒めて褒めて、たくさん愛でたい。
末っ子が、4歳のお誕生日を迎えたのが、半年前。
我が家の小さな末っ子が、4歳になっても、やっぱり私たちにとって小さな末っ子は、小さな末っ子のままだった。
長女は今、9歳。
すっかり物分かりがよくなって、もういよいよお姉さんでは、と思うことばかりだけれど、最近は「お姉さんになったなぁ」と思ったとき、同時に「でも今日の長女が、これからの長女の中で一番小さいのだよな」と思うようにしている。
そうしないと、私はまたきっと同じことを繰り返す。
うんと小さかった長女を、まるで大人みたいに扱ってしまった今日を後悔して、戻らない時間に嘆いてしまう。
成長はもちろん嬉しくて眩しいけれど、幼かったはずの長女を見落とすのも、とってもさみしい。
いつか彼女が中学生になった日に、いつかひとりで旅行へ行った日に、いつか結婚した日に、その時々に振り替える今の長女が、正しく小さな長女であるように、呪文のように唱えている。
「長女はまだ小さい」