幼稚園や保育園に入ると、子どもというものは、色々の可愛らしい工作を作ってくる。
例えばそれは、普段、家では汚れとか後片付けが大変で触らせてあげられない、とりどりの絵の具を使った絵画たち。
何種類もの折り紙や毛糸を使った貼り絵、子どもが幼稚園児になって初めてその名を知った『スズランテープ』の吹き流し、あとは厚紙で作った帽子にお面。
それらを大切に手に持ち、お迎えのママやパパの姿を待っている子どもの姿は可愛いし、揃いのお面をそれぞれに頭にかぶった園児が、小さな幼稚園バスにぎゅうっと詰め込まれて運ばれて行く様の可愛らしさと言ったらもう国宝級であるというのか、とにかく可愛いし、愛しい。
私も長男が、と言ってもこの子はもう13歳なのだけれど、その子が初めての幼稚園で初めて工作らしい工作を、あれはたしかこいのぼりらしきものを作って手に持ち
「これ、きょうつくたんやで」
と誇らしそうに渡して来てくれた時は胸がいっぱいになった。
だってついこの間まで赤ちゃんだった子が、夜泣きが酷くて明け方まで抱き続けていた子が、トイレもろくに自分で…は、この頃もまだできなかったな。
とにかくまだ赤ちゃんだと思っていた子が、拙いながらも工作をしてそれをちゃんと大事に持ち帰って来て。
「これはここにかざろな?」
玄関の靴箱の上にちょこんとそれを置いて、これ自分がつくったのやで、すごいやろと鼻をふくらましているのだから、涙を禁じ得ないというのか、親になるって涙腺が緩むということなんだなあと、子どもの成長って嬉しいものなのだなあと思ったのでした。
思ったのだけれど。
しかしこれ
「捨てないでね!」
と言われてしまうのですよ。
そして次の日も次の日も、色々と大きい物、小さい物、とにかく工作を作っては持ち帰ってくる。
そして一度増えだした工作と絵画の類は半年の内にまるで魔法のようにして膨大な量に膨れ上がり『とりあえずの置き場』として設置した段ボールの中でこんもりとした小山を作った。
これ、一体どうしたら。
しかしこういう時、小さい子の業界には先人の知恵がある。
それは
「先輩ママに聞け」
というもの。
私は既に複数お子さんのいる、だから長男より年上のお姉ちゃんやお兄ちゃんのいるママ数名に聞いた。
「幼稚園から持ち帰る工作ってどうしてます?今でもう凄い量になってるんですけど…」
そうすると1人のママから
「えーとりま箱に入れて、それを忘れただろうという頃に底の方から徐々に処分してる」
そんな、幼児の移り気な性質を利用した方法を教授された。
その場でどんなに『捨てないで!』と言ってはいても、新しいのを持って帰ったらウチの子は結構忘れてしまうねんと。
しかしそれはうちの長男にはダメだ、アイツはカバンに入れたお手拭きタオルの行方を直ぐに忘れてしまう癖に、そういう覚えていなくていいことは大体覚えていて
「4月につくったシールの絵がない!」
そういうことを秋になって言い出すのだ。
尚、その『シールの張ってある絵』というのはB5のざら半紙を4つに切ってそこによくわからない線、いくつかの果物のシールを張ったというもので、そういう細かなことを覚えていられるのなら、どうしてこれまで何枚もお手拭きタオルとか、コップを無くしてきたのよと聞きたくなる、そういう細かさであって。
勝手に工作を捨てようものならむこう3年はこの子に断罪されてしまう。
それで子どもの忘却を頼みにするのは無理だということになり、私は
「だったら、スマホで写真をとって、これで残しましたよってことにしたらいいよ、プリントすることもできるかもやけど、それ専用のフォルダを作っておいて、いつでも閲覧可ってことにしておけば、それでええって言うと思う」
私よりうんと年下のしかし先輩ママにそういうデジタルに保存するという方法を教えてもらった。
(そういうの、昭和生まれの私には思いつかなかったなあ)
これが時代の最先端かと驚いて感謝をしたそのママは平成生まれだった。
こういう時、親業界とはその年齢層の幅広さが集合知の重厚さを作り上げているのだなあとしみじみする。
それで意気揚々、あの時は年中の始めで、押し入れの半分を埋めようかという勢いだった長男の作品を
「ママ、いい事聞いてきたよ。この工作ね、写真にして残しておくと良いねんて」
写真に残したら、この箱一杯の現物はバイバイしていい?
そう聞いたらですね、当時4歳だった長男は少しだけ考えて
「じゃあアルバムにしてくれるの?」
と言うではないの。
えっ、デジタル保存ではあかんのですか?ということで今、我が家には当時の長男のお工作写真集がアルバムの形で残されている。
これかなり面倒だった。
そして今それを手にとって眺める13歳の少年は
「俺は一体どうしてこんなものを写真に残せと…」
そう言いながら小首をかしげるのだけれど、アンタがそうしてくれて泣いて頼んだからや。
結局その後、長男の卒園後、間を空けず長女も幼稚園に入園し、この子は長男程のダイナミズムを持たず、巨大なお菓子の空き箱の集合体の工作なんかよりは、細かな手作業
例えば
シールを張った小さな紙片
ストローを細かく切ったものを紐に通して作ったネックレス
大きめのビーズを使ったビーズ細工
お星さま、ハート、丸、三角、四角、画用紙に印刷されたそれを切って色を塗ったもの
そんな小さなものを沢山作っては持って帰って来た。
だから長男の時のようにそれらが物凄くかさ張って、押し入れの半分を圧迫することはなかったのだけれど、それだってやはり塵も積もればなんとやら。
それは次第に家のあちこちに増殖し、踏めば痛いし、壊すと泣くし、それでやはり2度目の写真集作成に着手する羽目になった。
子育てってなんて面倒くさいんだ。
当時の私はそう思ったものだし、そして今10歳になったこの長女もまた、そんな自分の謎工作写真集を見て
「何故私はこんなものを…」
という顔をするし、実際にそう言う。
だってアンタがそうしてくれって…以下略。
それでも13歳と10歳の子ども達はもうあんな拙くて、壊れやすい宝物を持ち帰る事もないし、それが箱に溢れて「どうしよう捨てたら怒るかなあ」と私が思い悩むこともないのだ、手元に残っているのは、母の日だとか父の日に作って来てくれた小さなしおり。
思い出って小さくなるものだな。
そうなったらそうなったで寂しいな。
そう思っていたら、うちにはまだ4歳児が残っているのですよね、この春から年中さんになって張り切っている現役幼稚園児がひとり。
休園が続いて十分に通えなかった年少クラス時代も何のその、先生方が時間を工夫して、お休みした時も別枠で時間を取ってくださって制作してきたいくつもの季節の作品が今、家の中のそこかしこにあって、私はこの年度の替わった春、それをやっぱり
「まあ広い家とは違うし、キリの良いところで捨てていいか聞いて片付けないとね」
と思って次女に
「これ、写真に残すから、もう捨てても良い?」
と聞いた。
時代は令和であるし、写真フォルダを私のスマホかパソコンの中に開設するので、今回はデジタル保存ということにしておいてなと。
「写真はママのスマホかパソコンの中にないないしておいてあげるから」
と言ったら次女ははげしくかぶりを振るではないの。
「やだ、アルバムにして」
きょうだいというのは、いらんところがよく似るもので、私は今回また3冊目の『工作アルバム』の作成に着手することになった。
でもあれでしょ、これ10年後とかに開いて
「何故私はこんなものを…」
って言うのでしょ、そしてママが
「アンタがそうして言うたからや」
って言うのでしょ。
なんか、ちょっと楽しみだな。