小さな子が、たとえば3歳にならないくらいの年頃に山手線の停車駅をすべてそらんじているとか、数字ひらがなカタカナあとはほんの少し漢字が解読できているとか、国旗に異様に詳しいとか、日本地図パズルをさらりと完成させてしまうとか、そういうことを目の当たりにした時親はどうしても思ってしまうことが
「…この子、天才なのでは」
実のところ今書いて並べたすべては、かつて我が家の長男がやっていたことで、こうして文字にして書いてみるとなんだかとても「かしこ」、こちらの言葉でおりこうさんな印象を読む人に与えてしまうのですけれど、本当のところはちょっと違っていた。
長男とにかくこだわりというか、気に入った事への愛情?執着?そういうものがとんでもなく強い子で、小石を側溝に落とす遊びは始めてしまうと半日終るし、気に入った数字をひたすらお絵描き帳に書き、食べ物も好き嫌いがはっきりしすぎるほどはっきりしていて、文字をすらすら読む癖にお友達と全然会話というものをしないし、先生のお話しを一切聞いていない子だった、この辺は今でもそう。
文字や数字を読むことには恐ろしく貪欲な癖に、人の話を全然聞いていない。
「お兄ちゃん今日、家の鍵持って行ってね、お母さん、次女ちゃんと長女ちゃんと病院やし、夕方家にいないから」
「ウン」
「お兄ちゃん、鍵持った?」
「え、なんで?」
大体毎日こんな風。
そのくせ駅名だの平仮名だの数字だの、最近なら元素記号だの『文字情報』にはなんだかとても強いのに、生活に関わることがなかなか習得できなくて、お友達との会話がちっともはずまないことが、当時の私にはとても不思議で、そしてそれにかなり悩んでいた
「この子、大丈夫なんやろか…」
それで保健師さんや幼稚園の先生、そんな人たちに色々と相談もしてみたけれど、大体の場合は
「できる事とできない事のバランスがちょっと悪いんですよね…」
そう言われてあとは様子見。
「まだ小さいのだし、色々と経験をさせてあげて」というのが大体のお話しの締めくくりだったもので「色々と経験って、何?」と、それにもまたかなり悩んでいた。
色々ってどういう色々?
心身の発達の途中の小さな子どもについて、できることはホントによくできるのに、できないことは「赤ちゃんか!」と突っ込みたくなる程できないという現象に悩むのは、長男が幼児と呼ばれていた約10年前も今もあまり変わらないような気がする。
だって今も幼稚園児の次女について全く同じことを思って悩んでいるから。
今、5歳の次女は、口はものすごーく達者なのに、文字はまだ数字しか読めない。
たまに平仮名が読めているような気もするけれど、何しろ聞けばなんでも答えてくれる9歳年上の兄と6歳年上の姉を持っている3人きょうだいの3番目なもので、自分で読もうという気がおきないらしい。
幼稚園の同じクラスの子達は自分でお手紙を書いて次女にくれるのに、次女の方は乱数表みたいに数字だけのお返事を返すのでいいのかとなんだか不安になって、私が『あいうえお表』を本棚から引っ張り出してきて見せても
「ひらがな?長女ちゃんに聞くからダイジョブよ!」
そう言って無下に断られたのは昨日の話。
私も「あ、そうですか…」とあっさり引き下がっていた。
長男の時は少しでも同級生よりできないことがあると思い悩んだあげく「色々な体験とやらをさせてあげないと!」と意気込んで結構色んなことをさせていたはずなのに。
とは言ってもそこはご予算には限りというものがございますので、お得な短期の水泳教室、体操教室の体験、それから近所のママさんが開いているお習字教室…意外といろいろとお試しで連れて行っていたということなのだけれど。
しかし思えば過去の私は大変に生真面目なママだった。
今はいろんなことに慣れ切って流れにすっかり身を任せて
「まあ…ひらがなは、その内やろう…」
なんて言って次女に拒否された『あいうえお表』をその辺に置きっぱなしにしたというのに。
さて、その生真面目な私に手を引かれて色々な所に連れていかれた長男は、水泳は水に親しむのを拒否してプールサイドに遁走し、体操教室はグラウンドの隅で砂山を作ることに没頭し、お習字は…墨汁で遊ぶタイプのお子さんにはまったくおすすめしないですという感想だけが残った。
「あんまり楽しくなかった…」
とすっかり不機嫌になった長男を連れて帰る夕暮れの帰り道、私は毎度がっかりしていた。
まだ3歳の長男に、そんなにいちいち希望をもったり絶望したりしていたらそっちの方が大変じゃないのかと今なら思うけれど、当時は本当に本気で心配だった。
私は一体何をあんなに焦っていたんだろう。
そうやってついなんでもよくできる子でいてほしいと、親心という名の欲をかいたけれど、結局「これならやる」と言って、年長児から小学校卒業まで続けてくれたのは『そろばん教室』だった。
平成から令和にかけてのあの頃「そろばん教室て、昭和か」と私は思ったものの、何がウケて何を好きになってくれるのかは本当にその子次第、よくよく考えれば平仮名より先に数字を読むことを覚えて
「これは…暗号?」
と思いたくなるほど数字がみっちり書かれた『お手紙』を書いていた長男に、数字を操るための計算器具がウケない筈がなかった。
ちなみにそろばんを習った経験の無い私はこの長男がそろばん教室に通っている間ずっと
「お母さんにそろばんのことは聞かないでください」
という姿勢を貫き、長男は「お母さんはアテにならならん、わからないことは、先生に聞こう」という学問の基本姿勢をここで身に着けてくれた。
3月生まれで、幼稚園でも小学校でも背丈がクラスで1,2を争う小ささで、そのせいもあってかけっこなんかはいつもビリ、それについて「別にぃ」って顔をしていた長男が、そろばんについてだけは検定試験に落ちた時、押し入れに籠って悔しがるという意外な一面を見せてくれたりもした。
6年生までに受かるんだと決めていた珠算の1級に受からなかったときなんか、不貞腐れて大変だった。
(君に負けん気なんてものがあったのか…)
そんな風に私を驚かせた長男も、中学生になってからは部活と学習塾が忙しくて、夕方のお稽古事どころではなくなって、そろばん教室は卒業になったけれど
「ねー!1945年生まれの人って今年何歳?」
「78歳!」
など、それくらい電卓で計算しなさいよという質問に即答してくれる子になった。
ありがとう長男、お母さんはとても助かっています。
とにかく計算が早いのは助かる。
長女はお兄ちゃんと同じことをやりたいと言ったもので、同じそろばん教室に入れたけれどそれは「仲良しのお友達が通っているので」というのが本当の理由で、検定試験でうっかり合格点に5点足りなくて不合格になるも「えへへ」と笑って割と平気そうにしているのが、長男と全く違っておもしろいなあ…というかもう少し頑張ってください。
それと長女はピアノをやっている。
この子は生来のんびりとした性格をしている上に、師事している先生も「音楽は楽しむことが一番大事」という指導方針で、最近やっとリストとショパンが教本にやってきてくれたところ、習い始めて早6年。
遅いと言えば遅いけど、ピアノは大好きなんだそう。
そして恐ろしいことに半年ほど前から、5歳の次女もピアノを始めていて、この4月初めての発表会があるものだから一体どうしましょう。
実のところ負けん気がものすごく強かった長男は最後珠算1級、暗算は2段を取得してそろばん教室を卒業し、のんびり屋の長女はのんびりとしかし確実に発表会の曲を仕上げて、今回初めての発表会、右手だけでほんの短い1曲を披露するはずの次女は
「あたしもう弾けるから!」
と言って全然練習をしない。
そして「もう弾ける」というのは事実と全く異なる話で、次女がちゃんと弾いている風に聞こえるのはひとえに、伴奏を担当してくれる長女が物凄く頑張って合わせてくれているから、それどころか
「最悪の場合、あたしが伴奏しながら次女ちゃんの分も弾く…」
なんて言ってなんだか頼もしい限りだし、次女にはもう少し練習をして欲しい。
習い事って結局、子どもの経験を増やすというより能力を伸ばすというより、うちの子にとってはその子の、その子らしさを探す旅のようなものだったなって思います。