私が東雲(しののめ)という言葉の読みと意味を覚えたのは30歳くらいのことで、東雲と言うのは闇から光へ移行する夜明け前に茜色に染まる空、明け方にたなびく雲のこと。
あの頃、ほとんど毎日いつ寝ていつ起きたのか少しもわからない細切れの睡眠の中で、ふと気が付くと窓の外の東の空が白んでいて
「もう朝…」
絶望に近い気持でため息をつき、窓の外の東雲を眺めていた。
あれは長男がまだ1歳になる前のことだった。
この長男というのがまた、それこそ長く後世に語り継がれるべき、伝説級に寝ない子だった。
私はあの頃、人間にとって睡眠がどんなに重要かということを思い知ったし、普通の人間には「不眠不休」なんてことはまったく不可能だということもイヤと言う程思い知った。
毎晩毎晩、夜がくるのが本当に恐ろしかった。
赤ちゃんにすやすやと眠ってもらうためには、ネンネの前に入浴でよく体を温めましょうとか、テレビは就寝の数時間前にはスイッチを切り代わりに優しい音楽を流しましょうとか、室内を暗くしてとか、とにかく色々な方法を試したし、赤ちゃんの眠るオルゴールとか(高かった)、赤ちゃんがすやすや眠るベビークリームとか(これもまた高かった)とか、これが良いと聞けば値段も見ないでなんでも買い求めた。
けれどそれらでは何の効果も得られず、長男は毎度寝かせようとするとぎゃんぎゃんと火が付いたように泣き続けた。
(おれはねむたいんだ、ねむたいんけど、ねむれないんだよう)
まだそんな会話ができる月齢ではない長男は、それを訴えるかわりに体を思い切り反らせて泣き叫び、母である私はその鼓膜がおかしくなりそうな大声になすすべもなく、長男をがっちりホールドして抱いてよしよしと宥めるか、お乳をやるかしか手はなく、そのせいで私はこの頃ほぼ毎晩、半裸の裸族状態で過ごしていた。
そうやって迎えた明け方、空の彼方の東雲はひときわ美しく、私はそれをよくぼーっと眺めていた。半裸で。
じゃあこの頃、この長男の父である私の夫はどうしていたのか。
いなかった。
夫は長男が生後3ヶ月から約1年間、研修というか単身赴任というか、とにかく仕事で関東地方に行っていてずっと不在だった。
妻子のもとに帰ってくるのは1ヶ月に1回程度、今から14年前の私達夫婦にとって新幹線の往復チケットはかなり高額で、夫の毎週の帰宅はさすがに家計が許してくれなかった。
だから1ヶ月に1回、夫がやっと帰宅すると、私は夜寝る前に
「あのね、この子本当に寝ないの、本当に寝なくて私ももう発狂寸前だから、できたら夜中泣いたらちょっと対応してほしいんやけど…」
どうかひとつ、この子のパパとして夜泣きの対応をしてほしい、何ならこの荒ぶる神を鎮めてくださいよと両手を合わせて夫を伏し拝んでいた。
対する夫は「わかった」とそれを快諾してくれたけれどなんとこの男、毎回普通に寝てしまっていた、それも朝まで。
私はあの時ほど、隣ですうすうと寝息をたてている夫を憎たらしいと思ったことがない。
「こいつ…寝とる、ウチが毎晩毎晩、1時間も続けて寝ていられへんのに…普段1人暮らしの向こうの家でぐうぐうノンストップで寝とる癖に、産後1年近くまとめて3時間も寝てないウチの前でぐうぐう寝とる…」
ただうらやましくて、妬ましくて、ぎゃんぎゃん泣き放題に泣き続ける長男を抱きながら私はただ茫然と、夫への呪詛を呟き続けていた。
当然、長男の育児が楽しかったとか、毎日小さな長男が少しずつ成長してゆく様がきらきらした素敵な思い出になっているとか、そういうことはひとつもない。
とにかく毎日がツラかった。
だからもし今、時間をさかのぼることができるなら、私はあの頃の自分のもとに赴き、そして深夜、当時寝室にしていた和室の襖をスパーンと開けて
「俺だ!助けに来た!」
というのをやりたい。いややらねば。
それで今でこそもう170㎝近い身長でなんならすね毛も生えた少年と青年の間くらいのお年頃の長男ではない、体重7㎏だか8㎏だかの小さな赤ちゃんだった長男を一晩抱きかかえて揺らしていたい。
そうやって小さな長男を抱きながら「あんたは寝てなさい」と慢性的寝不足に喘いでいた30代初めのころの私を一晩、存分に寝かせてやりたい。
大丈夫、45歳の私は夜を徹して子守をしたあとちゃんと昼寝するから。
結局、長男が夜に入眠してから朝、一度も夜中に中途覚醒しないで眠るようになったのはうんと後のことで、多分小学生になってからだったと思う。
お陰で私はその次に産んだ長女の赤ちゃんの時代の記憶がまだらになってしまっている。
覚えているのは夕暮れ泣き(コリックと言うのだっけ)の長女を背中に背負い、幼稚園で暴れて疲れた長男が「眠い」とぎゃんぎゃん泣くのを横抱きにして
「これ、もうどうしてらええねん」
なんて途方に暮れていたことばかり。
長男と長女、ふたりの可愛い赤ちゃん時代にそれぞれの寝顔をうっとりと眺めて
「かわいいなあ…」
と嘆息を漏らした記憶が全然ない。
それがあまりにも心残りで、もっと穏やかに大らかな気持ちで、赤ちゃんとはなんて可愛い生き物なんだろうと思いたかったという後悔というか恨みというか、そういう感情はずっと私の中に熾火のようにくすぶり続けた。
それと、あの頃すごく孤独だったなあという記憶と。
お陰で今も、まだお子さんがうんと小さいとか、もしくは生まれたばかりですという身の上のお母さんが、赤ちゃんの夜泣きに一晩中付き合って、明け方まで眠れなかった、つらい、ねむい、しんどいという話を聞くと
「俺だ!助けに来た!」
と言ってその人の家のドアをバーンと開けて、もしくは天井からシュタッと降りて赤ちゃんをひと晩あずかりたい衝動に駆られてしまう。
だから長男が9歳、長女が6歳で次女を授かった時、私は「ああこれでやっと新生児期から乳児期のフクフクの赤ちゃんを存分に可愛がって堪能できる」と思って、それをとても楽しみにしていた。
きょうだいの年がここまで離れていれば、兄や姉の夜泣きやぐずりの対応に追われて赤ちゃんの記憶がないなんてことはないだろうし、長男も長女も少しはお手伝いをしてくれるだろう、夫は過去の色々を反省して少し位は夜泣きを何とかしてくれるだろうし、私だって3人目の育児であれば、前よりはもっとずっと余裕をもって対応できるはず。
そう思っていたのに、次女は産まれてからすぐにNICU(新生児集中治療室)に入院することになった、入院期間は小児病棟にいた時期も含めると4ヶ月。
その間、私はもちろん毎日面会に行っていたけれどそれは昼間だけで、夜は基本的にNICUの看護師さんが寝かしつけをして、ミルクをやり、夜泣けば抱いてあやす、そういう新生児期を過ごすことになってしまった。
だから私は結局、我が子の赤ちゃん期、特に新生児期に穏やかに満たされた気持ちでその寝顔を眺めたとか、夜中ふにゃふにゃと泣き始めた我が子にミルクもしくは母乳をゆったり与えたなんてことを全然、したことがない。
ただ、この次女がまた、長男に顔も気性もそっくりな子だったもので、仮にこの子が元気に問題なく生まれて、NICUに入院することなく、新生児期を私が手元で育てていたとして、じゃあそんな穏やかな思い出があったかどうかは、ちょっとわからない。
私もまさか長男のように、全く夜中寝てくれない上、眠れないなら眠れないで静かに布団に転がっていてくれればいいものを
(おれはねむたいんだ、ねむたいんけど、ねむれないんだよう)
なんて「で、どないしたらええねん」という突っ込み必須の理由で泣きわめいて一晩も二晩も親を寝かせない子を2人も授かるなんて思っていなかったのだけれど、この次女、NICU入院中にお世話になった看護師さん曰く
「次女ちゃんが、夜中泣いて暴れることと言ったら、自分の子を3人、そしてかれこれ10年近くこのNICUで働いている私もちょっと負けそうだった、というかたまに負けていた」
ということで、実際「もう!次女ちゃん、いいかげんにしてッ!」とちょっと叱ってしまったこともあったそう。
いえこちらこそなんだか申し訳ありません。
やっぱり次女のNICU時代も、もし時間をさかのぼることができるのならば、その場にはせ参じて
「すいませーん、私が抱いておきまーす」
というのをやりたい。
いえ、是非やらせていただきます。