遊びたい娘と眠い母、熾烈な戦いが今日も始まる。
「ねえ、起きて」
昼間といえど母は眠い。
布団でうとうとしている私の元へ、娘がやってきた。
「遊ぼう」
日曜日の午前10時である。
娘が元気で何よりだけど、母は眠いのだ。
「お母さん眠い」
前日は娘のピアノの発表会の後、2人で友人宅にお邪魔してお泊まりしてきた。
私はその際によく眠れなかったので、午後からのパートが始まる前にちょっと仮眠しておきたいのだ。
娘の方はよく眠れたみたいで本当に何よりだ。
でも、母は眠い。
「起きて、遊ぼう」
「お母さん眠い」
この攻防が何往復か繰り返され、私のイライラも少しずつ溜まってくる。
「昨日よく眠れなかったから、今ちゃんと寝たいんだよ。午後から仕事だからね」
「でーもー」
「でもじゃないでしょ、お母さんは寝たいから遊べないよ。1人で折り紙でもお絵描きでもしていいし、動画も見ていいんだよ、ただお母さんは遊べない」
「なーんーでー」
娘も布団に横になり足をバタバタさせ始める。
娘の服は帰ってきた時のままだ。
「布団に寝るなら着替えて」
「着替えたら遊んで」
「それとこれは別の話だよ」
「なーーーんーーーで?」
この「なんで」攻撃は、娘の癇癪のスタートの合図であり、お決まりのパターンでもある。
私はぐったりした気分で、ああ、今から始まるのか、と思う。
「あーーーーそーーーーぼーーーー!!」
本当にそれで遊んでくれると思っているのか、娘はとにかく自分がどれだけ遊びたいかを声のボリュームで伝えようとしてくる。
私がどうしたものか、と考えていると
「無視しないで!!」
と、また声を張り上げる娘。
「無視じゃなくて、なんて言おうか考えてるんだよ」
「じゃあ、そういえばいいじゃん!!」
これも娘のお決まりのパターンだ。
私は寝るのをあきらめて、娘と話し合うモードに切り替える。
「まず、服着替えておいで」
「じゃあ遊んで」
「それは別の話」
「ぎゃあああああ」
小さな体に恐ろしい熱量である。
これを蓄電することができれば、我が家の家計は少しは楽になるかもしれない。
夜勤明けで寝ていた夫は、早々に睡眠をあきらめてリビングにいる。
「お話しよう」
「いやだ」
「なんで?」
「だってお母さんすぐよくわからないこと言うから」
「わかるように説明するから」
「でもまだ子どもだもん、そんなに全部のことがわかるわけないじゃん」
「だから少しずつわかって欲しいんだよ」
ちなみに娘のセリフは全て、叫び声である。
私は、娘の叫び声の呼吸の瞬間を見計らって、なるべく大きくない声で聞こえるように話している。
「あなたは、お母さんと遊びたいって思ってるんだよね?」
少し静かになって頷く娘。
私は娘の遊びによく付き合う方だった。
娘が遊びたいなら遊んでやりたいし、私も些細なことに楽しみを見出してしまうので、けっこう本気で楽しく遊んでいたのだ。
しかしそれは娘の、「自分1人で楽しめる力を伸ばす時間」を奪っていたのかもしれない。
もしくは、持って生まれた性質か。
娘はとにかく「誰かと」遊びたがるし、その誰かの中で一番刺激的なのが、楽しいお母さんである私なのだ。
しかし、母は今は眠い。
「お母さんは寝たいと思ってる。2つの違う気持ちがあるよね。お母さんは、自分が寝たいから寝ようとしてるだけ。でもあなたの『お母さんと遊びたい』という気持ちはお母さんの気持ちを変えなきゃいけないから難しいんだよ」
もう、これまで何度も同じ話をしている。
「お母さんの気持ちと、あなたの気持ちは同じ『気持ち』だけど、種類が違うんだよ。人の気持ちを変えさせることって、本当に難しい。でもたとえば、あなたが折り紙したいとか、本読みたいとか、動画みたいと思えば、それは簡単にできる。1人で自分の時間を楽しむことができた方が、これからの人生、ずっと楽しいんだよ」
「でもお母さんと遊びたいの」
私のしゃべり方のトーンを真似て、娘が言う。
伝わらない。
伝わらないのか、わかっているけど抑えられないのか。
「お母さんは今、遊びたい気持ちじゃない」
「ぎゃああああ」
またしても発狂する娘。
足をバタバタと床に踏みつけ布団の上で転がりまわっている。
誰か早く蓄電装置を……とか言ってる場合ではなく、小学3年生がマンションの一室で絶叫して転がりまわっている状況を、なんとかしなくてはならない。
それに我が家では、外出した後の服では布団に入ってはいけないルールだ。
これは私はどうでもいいと思っているけど、夫が潔癖なので合わせている。
この、人によってはどうでもいいルールがあって共同生活が成り立つのだ、と言うこともできれば伝えたい。
「ねえねえ、まず服着替えておいで」
「じゃあ遊んで」
言うと思った。
「それは別の話。あなたがやりたいことと、やっちゃいけないことをしているってことは関係ないでしょ」
「うわーーーーーん」
「ねえ、ねえ、まってよ、あなたはもう小学3年生だから、そんなふうに自分の気持ちを伝えてはいけないんだよ、そうやってバタバタさせて自分の気持ちを伝えるのは、まだ言葉がしゃべれない赤ちゃんのやることでしょう?もうこんなに大きい子が……」
「こんなに小さいのーー!!」
それはちょっとエモい。
そうですね。お母さんにとってはまだまだ小さい娘ですよ。
と言ってやってもいいが、それだと私の伝えたいことはブレてしまうので言わない。
「その気持ちの伝え方はもう、ダメだよっていうこと」
「ぎゃああああ」
「そんなことされても、じゃあ遊ぼうってならないでしょう?方法が間違ってるよ、考えようよ、もっといい方法を」
「わかんないのー!!」
「だからお話しようよ。どんなことをしたら人の気持ちがどう変わるのか考えようよ」
「子どもだからできない」
「少しずつでいいんだよ、まず叫ばないでお話しできるようになろう」
「叫ばないとしゃべれないの」
「このままでいいと思ってる?」
「思ってない!!」
「そうだよね。だからお話しよう」
「でもわかんないんだもん」
「何回でも説明してあげるよ、あなたはお母さんと遊びたい、お母さんは眠い……」
「それはわかってる!!」
「あなたは、お母さんを遊びたい気持ちにさせるか、自分で楽しいことを探すか、どっちか選ばないといけない」
「お母さんが遊びたい気持ちになればいい!!」
「そのために叫んだらいいと思っているなら、それは間違ってるよってこと」
「じゃあ、どうすればいいの!?」
「それを考えよう。人の気持ちを変えるにはどうしたらいいのか、それはとっても難しいよ。もしかしたら、自分で楽しいことを探す方が簡単かもしれない、それにもしかしたら、自分が楽しそうにしている方が、人が寄って来てくれるかもしれない」
「またわからないこと言うじゃん、わかんないよ!!」
この理屈がわからないんだよな。
振り出しに戻る。
「お母さんは寝たい。あなたはお母さんと遊びたい。2つの違う気持ちをどうすればいいのかなって話だよね?」
「話してもわからない!!」
「じゃあさ、お母さんが怒鳴ったりすればいいと思う?嫌でしょう?」
「それでもいい!!私のことが嫌いなんだよね!!」
はぁ、とため息をついてしまう。
時刻は12時。
私はあきらめて、お昼ご飯を食べようと思ってリビングに行った。
娘はついてこなかった。
ここに至るまでにだいぶ放熱したのだ。少し疲れたのかもしれない。
これがもう少し早いタイミングで私が寝室から出ようとすると、体当たりで絡んでくる。
必要な押し問答ではあったのだ、と言い聞かせる。
リビングで「お疲れ」と、夫が言う。
白目の表情で返事する私。
自分の分のパスタを茹で、お昼ごはんを食べることにした。
寝室はやけに静かだ。
覗いてみると、結局着替えないままの娘が叫び疲れて寝ていた。
娘のお昼ごはんは、起きたら夫が作ってくれるだろう。
「ピアノの発表会、よかったね」
と、夫が言う。
そうだ、昨日はピアノの発表会だったのだ。
仕事だった夫も、なんとか駆けつけて観ることができた。
娘はカノンをゆっくり丁寧に弾いていた。
簡単に演奏できるようにシンプルに構成された楽譜だけど、最後まで同じテンポで、美しく響かせていた。
「緊張とか、全然しないんだよね。僕があれくらいの頃は、なんか発表会とかになると緊張してたけど」
「それは、周りの目線を意識できてたってことだよね、あの子はまだ緊張するほど周りが見えてないんじゃないかって気がする」
「周りが見えてないことにも、いろんな面があるね」
「そうねえ」
娘のあの強い自我は、大変だけれど、伸ばしてあげたい部分もある。
緊張しないで堂々とピアノの発表会に臨める部分は、そのまま育ってほしい。
でも、日常生活ではもう少し周りが見えるようになってほしい。
いい面を残して、悪い面を直そうとしているのかな。
それはそれで難しいことを要求しているのかもしれない。
「起きたら、どういうテンションで行こうかな、もう蒸し返さない方がいいかな」
と夫が聞くので、「そうだね」とうなずく。
「じゃあ、起きたらプールに連れて行こう」
「ありがと」
食べ終わった私が化粧をしていると、リビングが少し賑やかになった。
先ほどとは打って変わった娘が洗面所にやってきて、
「お母さん、お昼もう食べた?」と聞いてきた。
「食べたよ」と言うと、
「今日お昼食べたらプール行くんだよ」
と、娘は嬉しそうだ。
「よかったね」
この切り替えの速さにも、もう慣れた。
娘の癇癪歴は長い。
もう何年も同じことを繰り返している。
こちらもありとあらゆる方法を試して、模索している最中である。
繰り返しているが、ずっと同じではなく、ふと「あ、変わったな」と思うことがある。
先日友達をうちに連れてきて遊んでいて、口論になりかけた時
「このままだとケンカになるから、もうこの話はやめよう」
と、娘から言っていた。
それは、以前私が娘に対して言った言葉だった。
その時は受け入れなかった言葉も、時間をかけて引き出しにしまっていたのだ。
そんな風に、少しずつ変化しながら成長してくれればいい。