僕が育ったのは長野県伊那市。天竜川の河原が近くにあって、よく遊びに行きました。幼少のころ、父と一緒によく川辺に行って、石ころの上をかけっこしたんです。幼いがゆえといいますか、僕は父に絶対に勝てると思っていたんですよ。そしたら、当然ですけど、追い抜かされたんです……。
それまでは、大人と子どもの違いすらわかっていなかったけれど、その時に初めて「大人ってこういうことなんだ」と、全く新しい概念を発見したような感覚になったのを今でもはっきりと覚えています。
”総合学習の時間で自主性が培われた”「キューティーハニー」「龍馬伝」人物デザイナーの柘植伊佐夫氏
1,331 View今をときめく「気になるあの人」が、どのような環境で育ち、どのように周囲の大人や親が関わったことによってその個性が磨かれたのでしょうか。『原石の磨き方』を明らかにしていく当インタビュー特集第5回目。ビューティーディレクションとして「キューティーハニー」などを経て、2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」で人物デザイン監修を担当された柘植伊佐夫氏にお話を伺いました。
父にかけっこで負けたことで、子どもの自分を自覚した
油絵も映画も、日常の風景から好きになっただけ
父は木工の会社に勤めていて、とにかく仕事人間でした。椅子の設計をしていたのですが、家でも、木でパターンを作っては切り出す作業を繰り返して、自分でつくっていましたね。
僕は一人っ子で内向的だったこともあって、小学生のころは、家でよく油絵を描いていました。父が油絵をやっていたのですが、特に教えてもらうわけでもなく、見よう見真似で描いていただけ。
父が描く油絵は、キャンバスではなく、決まって木の板でした。木に関しては、事欠くことがなかったから、キャンバス代わりにしたんだと思います。僕も木の板に描くようになって、今でも油絵を描く時は、木の板の方が好きですね。
父は映画好きでもありました。家には映画のパンフレットが山積みになっていたし、普段の会話にも、あの映画がおもしろいとか、映画のうんちく話もよく聞いたような気がします。
でも、あの映画を観たほうがいいと言われたこともなければ、映画を一緒に観に行った記憶もないんです。父は、何かを強要したり、教えるような人ではなかったけれど、僕は日常の風景から、自然に絵や映画を好きになっていったんだと思います。
未来から逃げるようにしてはまった読書
母はといえば、とにかく読書家。母が読んでいた本に特に興味は沸かなかったけれど、僕も本を読むのが好きで、星新一や遠藤周作にハマりました。いつも登下校の鞄に入れて持ち歩いてましたね。
それから僕は、今でこそ伊那市のことをすごく豊かな街だと思えるのですが、小学生のころはそうではなかった。街の経済性や、山間部のしみじみとした感じからか、子どもながらに、世の中はそれほど明るいものではないんじゃないか……と悲観的に感じる部分もあったんです。
だから僕にとって読書は、そんな気持ちの逃げ場だったり、達観的になれたり、夢をみれる場でもありました。
今の仕事のルーツは、祖父にもあるかもしれません
両親の影響も受けているけれど、今の僕の仕事のルーツは、祖父にもあると思っているんです。祖父は、もともと浅草で、無声映画の伴奏を務める楽士でした。次第に時代は、トーキー(音声を伴った映画)に変わったので、祖父は職を失い、長野で演芸一座を作ったんです。今でいう、プロダクションですね。
祭事があるときに神社で舞台を行ったり、興行を取り仕切ったりしていて、一度だけ、僕も祖父の仕事を見に行った記憶もあります。今、僕が映画やプロデュース的な仕事をしているのは、直接的ではないものの、そんな祖父の影響も受けていると思っています。
親の教育ももちろん大切だとは思いますけど、それが全てじゃない。案外影響を受けた人って、他にもいたりするんです。
小学校時代の総合学習が、クリエイティブな発想の起点に
僕が通っていた伊那市立伊那小学校は、教育実験校と呼ばれていて、総合学習を全国で一番早くに取り入れた学校でした。今も全国のモデル校になっています。通常の義務教育の学習ではないので、通信簿もありません。自由に科目を選んで、自ら立てた計画を実行し、その成果までもチェックする。
どれだけオリジナルか、ユニークなのか、ということも重要な評価軸でした。要は、今のベンチャー企業がやるようなことを、小学生からやってたんですね。
両親は教育に関して、いわゆる放任主義で、これを必ずやりなさいと言われたことは一度もなかった。当時は、子どもを伸ばすために、どんな教育や環境が必要なのかを、多くの親がさほど認識していない時代でした。だからこそ、総合学習で培った自由で自律性の高い学習は、僕のクリエイティブな発想の起点になっているんです。
卒業文集に書いた将来の夢は「映画監督」だった
将来の夢は映画監督になること。
小学校の時の卒業文集にそう綴っていたけれど、それには全く固執はしていませんでした。
高校卒業後は美大に行きたかったものの反対されて、母の推薦で街の美容室へ就職。この街から出たいと思っていた僕にとって、それは一つの小さな挫折であり、今一つ釈然としないまま毎日を過ごしていましたね。
美容室に勤めて3年が過ぎたころ、モッズヘアがパリから日本に出店するという記事をみつけ、自力で街を出ることを決めました。
ヘアメイクアーティストから人物デザインへ
ヘアメイクという業種があることを知ったのは、上京してからです。それから、ヘアメイクを学ぶことに没頭して、ヘアメイクアーティストとして活動するようになりました。
その後、映画や舞台などからも徐々にオファーをいただくようになって、髪、メイク、髭など衣装以外を表現するビューティーディレクションへ。
そして、役者さんのキャラクターを作っていくうえで、ヘアやメイクだけでなく、衣装や小道具……扮装すべてをかたちにしていく「人物デザイナー」として仕事をするようになりました。
僕は自発的に夢を叶えるタイプじゃないんです
こうして仕事が変遷してきたのも、不思議とオファーをいただいたので、自力ではなく他力の部分が大きいかもしれない。僕は自発的に夢を叶えるタイプではないですから。
新しい業態の仕事にシフトしても、人間像をつくることには、なんらかわりはないし、僕がいつも追及しているのは「人の美しさをどう表現するか」ということだけです。
ただ、頂いた仕事の中で、できることを最大限に考えてイメージを創りだし、限界までやりきる。すると、その成果が次の仕事へとつながっていったような気がします。
そこには、小学生のときに総合学習で学んだ「自由度の高い環境の中で、自分で考え、自分で決める」という自律性が根付いているのかもしれないですね。
(柘植伊佐夫氏 プロフィール)
人物デザイン/ビューティーディレクション。1960年東京生まれ。少年期を長野で過ごす。1990年、第一回日本デザイナー大賞受賞。1999年、手塚眞監督「白痴」でヘアメイクを監修。塚本晋也監督「双生児」、庵野秀明監督「式日」「キューティーハニー」などを経て、2005年、現代美術家マシュー・バーニーのアートフィルム「拘束のドローイング9」のビューティーメイクアップ、レオス・カラックス監督「メルド」のビューティーディレクションを担当。2008年、同担当の滝田洋二郎監督「おくりびと」が第81回米国アカデミー賞外国語映画賞を受賞する。この頃よりビューティー表現の枠を越えて、キャラクターデザインとその全制作を統括する「人物デザイン」の必要性を強く感じ、本木克英監督「ゲゲゲの鬼太郎千年呪い歌」、中野裕之監督「TAJOMARU」、三池崇史監督「ヤッターマン」「十三人の刺客」に続き、2010年、NHK大河ドラマ「龍馬伝」で人物デザイン監修を担当。
(取材・文: 山本初美 / 写真:奈良英雄)
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