直球のノンフィクションである。内容はタイトル通り。力道山の妻、田中敬子の人生を丁寧に描く。
田中敬子はごく普通の家庭に生まれた。父親は警察官。中学生の時は健康優良児。神奈川県代表に選ばれ、高校2年生で書いた英語の論文はコンクールで優勝した。外交官を目指していたが、偶然から日本航空の客室乗務員になる。同期にはのちに作家となる安部譲二がいた。
プロレス界とは縁もゆかりもなかった彼女が、力道山に見初められて結婚した。当時の力道山はスーパースターであり、さまざまな事業を手がける実業家でもあった。彼の周囲には、財界や政界の重鎮たちも、ヤクザの親分たちもいた。プロレスは単なるスポーツではなく、興行でもあるからだ。リングの下では金と権力のさまざまな欲望が渦を巻いていた。そんな環境に、何も知らないお嬢さんが飛び込んだのである。
ところが力道山はヤクザに刺された傷が原因で急死してしまう。結婚してまだ半年。実家に帰ることだってできただろうし、客室乗務員に戻ることだってできただろうに、敬子は力道山のビジネスを引き継ぐことを決意する。
やがて恐ろしいことが明らかになる。力道山のビジネスは大儲けどころか借金まみれ、火の車だったのだ。相続したのは財産ではなく巨額の負債。先妻の子供3人を含めて4人の子育てをしながら、亡夫が残した事業を引き継ぎ、それと同時にプロレス界もまとめていかなければならない。敬子が背負ったものはとてつもなく大きく重かった。まさに波瀾万丈の人生。
筆者が最も興味を引かれたのは1975年12月11日に開催された「力道山十三回忌追善試合」をめぐる謎について。この日、アントニオ猪木は都内別会場でビル・ロビンソンとのタイトルマッチを戦うため、追善試合には出なかった。力道山が最もかわいがった猪木と、力道山親族の間に決定的な亀裂が生じる事件となった。
なぜこんなことが起きたのか。著者の調査と推理によると、会場確保という興行の実務面での齟齬が背景にあったようだ。つまり感情の対立云々というよりも、小さなチョンボが大きな結果を招いてしまった。力道山とジャイアント馬場、力道山とアントニオ猪木の関係も、本書を読むとかなり複雑だったことがわかる。
歴史に「もしも」はないが、もしも力道山が死ななければ、と本書を読みながら何度も思った。例えば、日朝関係。よく知られているように力道山は朝鮮半島出身である。日韓関係、日朝関係にも関心を持っていた。彼が長生きしていたら、日朝、日韓、さらには北朝鮮と韓国の架け橋にもなり得たのではないか。
プロレス団体が分裂したり、対立したりというのも、ルーツをたどれば力道山の突然の死に行き着く。プロレス団体の体制が整い、力道山の後継者が明確になっていたら、日本のプロレス界はもっと違った道を辿っただろう。
永江朗(ながえ・あきら):書評家・コラムニスト 58年、北海道生まれ。洋書輸入販売会社に勤務したのち、「宝島」などの編集者・ライターを経て93年よりライターに専念。「ダ・ヴィンチ」をはじめ、多くのメディアで連載中。