【スペシャル対談2】関塚隆×中村憲剛。監督をやるなら“組閣”も大事?「指揮官はひとりじゃできない」

 かつて川崎の監督を務めた関塚隆と、その川崎のバンディエラとなった中村憲剛。師弟関係を築いてから20年、今年、中村がプロのチームを率いることができるS級ライセンスを正式に取得。一方、関塚は現在、J3の福島のテクニカルダイレクターとして、地元に活力を与えようと奮闘中。8月31日(土)の北九州戦(18時キックオフ)ではホーム・とうほう・みんなのスタジアムに5000人を集めようとキャンペーンも展開している(https://fufc.jp/lp/2024/0831/)。
 ともに指導者となっての初の対談。パート2は大関友翔のサプライズ登場から本題に戻り…。
 
――◆――◆――
 
――さて、では話題を戻しましょう。ケンゴさんのコンバートの話でしたね。
 
中村 僕がもし監督をさせてもらった時に1年目から選手個々の細かい部分まで見る余裕があるのかと。そこはセキさんに聞いてみたかったんです。自分だったらそんな余裕があるかなと。
 
関塚 でも一番は個々のストロングを活かすことだから。ケンゴはスペース見つけて出ていく力や決定力もあったけど、何より印象に残っているのは、あのインサイドパス。正確に30メートルぐらいのパスを出せた。これは、使わない手はないなっていうところで、能力を考えても、じゃあボランチに置いてみようかと。ゲームの流れも読めるし、縦にパスを差し込むこともできたから。ボランチは多くの選手がいたけど、どんな化学反応が起こるのか、楽しみだったよね。
 
中村 それこそ、当時のボランチにはオニさん(鬼木達)、山根巌さん、ベティ(久野智昭)さん、相馬(直樹)さんら経験豊富な方がいましたから。ただシャドー(トップ下)は新加入のマルクスがいた。新潟からマルクスを獲ったのはセキさんのオーダーだったんですか?
 
関塚 そうだね。就任した当時、鹿島で前年の年末まで天皇杯を戦っていて、あまり準備期間もなく、編成もほぼ終わっていたんだけど、3人獲得したい選手がいれば伝えてほしいと言ってもらえて。それで相馬(直樹)とマルクスのふたりをリクエストさせてもらった形だったね。全体の戦力を見た時にそのふたりが必要だなと。
 
中村 それは初めて聞きました。その決断はめちゃくちゃ大事でしたね。結果的にJ1昇格へマルクスも活躍しましたからね。
 
関塚 マルクスは新潟ではストライカーという印象だったけど、アシストや自分が受けて前の選手を使うプレーなどをやってくれたからね。
 
中村 僕はマルクスが加入したせいでボランチにコンバートされたのかと思っていました(笑)。
 
関塚 でもトップ下には今野(章)もいたからね。
 
中村 確かにキンちゃん(今野)、マルクス、そしてジュニーニョも。トップ下もタレントが揃っていました。
 
関塚 そしてジュニーニョと黒津(勝)が2トップを組むことが多くてね。
 
中村 前線には我那覇(話樹)もいましたから。
 
関塚 俺はひとつのポジションにふたりくらい並べ、競争してもらう形を基本に考えていたから、ケンゴが面白い選手だとは分かっていたけど、置くならもうひとつ後ろかなと。パスを出せるプレーヤーとしてね。でも当時(2004年)の川崎はJ2で、ミッドウィークに試合がほぼなかったから、トレーニングをして試合に臨み、試合を振り返ってまたトレーニング、という良いサイクルが組めたよね。そうやって監督1年目でしっかりチーム作りをできたのは大きかった。J1だとそうはいかず、鹿島でコーチをやっている時もミッドウィークにほとんど試合が入っていたからね。そうなると、監督としてアプローチの仕方も変わってくる。だからこそ、トレーニングの時間をしっかり確保でき、みんなが成長しながらチーム力を上げていけたのは本当に良かった。それで1年目でJ2優勝、J1昇格を勝ち取れたわけだし、2005、2006年を合わせた最初の3年で選手と向き合える時間が、長く取れたのは財産だったね。
 
中村 当時はチームとしてしっかり積み上げができている実感がありましたもんね。試合から課題を抽出し、落とし込み、再び試合を迎える、みたいなルーティンがあった。それと先ほどのセキさんからの質問に対する答えがもうひとつありました。セキさんって知的じゃないですか?
 
関塚 それはありがとうございます。
 
中村 だからもっと穏やかな人だと思っていたんです。でも試合が始まったらいきなりパンと弾けて、ガツっと指示を出す形で。それは結構ビビりました(苦笑)。本当に熱く、負けず嫌いで。当初はそういうイメージではなかったので、最初のトレーニングマッチなどではみんなが「え!?」となりました。
 
関塚 それは、当時のチームや選手たちが大人しかったからさ。
 
中村 選手たちは構えていた部分はあったんですよ。
 
関塚 ただ、鹿島の選手だったら、監督がそういう風にしなくても気持ちを出して戦っていたんじゃないかなと。でも、川崎はみんな大人しくて。それこそ、言葉があれだけど、本当に勝つ気あるの?、と。前年に、勝点1差で昇格を逃していたから、今年こそはっていう熱量がどれぐらいあるのかと思っていたら…。監督が変わって俺の様子を窺っているのは分かっていたけど、どっかでスイッチを入れなきゃと考えていたからね。
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――監督として演じている部分もあったということですね。
 
関塚 やっぱり「今年はJ1に上がるんだぞ」っていう気合いをね。それを練習試合からこんなに強調するのかって、選手たちは思っていたんじゃないかな。
 
中村 ちょっと怖い部分はありました(笑)。
 
関塚 大学生と試合をやった時も、絶対に負けるなって、そこは言っていたからね。
 
中村 チームとして自信がなかったっていうのもあるんですよね。セキさんは鹿島から来たから、タイトルの経験もあって、その道筋も分かっていたはず。だけど当時の川崎はまだJ2で、先ほどセキさんが言ったように、前年に勝点1差で昇格を逃す惜しいところまでいったとはいえ、まだ何も成し遂げていない選手が多かった。オニさん(鬼木達/現・川崎監督)も恐らく最初にレンタルで鹿島から川崎に来た時にびっくりしたんじゃないですかね。そういうコメントをどっかで見たことがありました。川崎は基本的に大人しいんです。だけどセキさんの熱量に触れて、どんどん活気づいていった。それとセキさんはめちゃくちゃ細かかった。前任のイシさんも細かかったですが、セキさんがより細かかったんです。なんで勝点を逃したのか、その理由をキッチリ潰し切るというような。一方で、良いところはしっかり残し、ちゃんと前年とのバランスを見て、“関塚フロンターレ”の形になっていきました。
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――そういったチームの作り方は指導者としてひとつの指標になりそうですね。
 
中村 前年は3位であと一歩で昇格を逃していたチームの監督に就任するって難易度が結構高かったと思うんです。これから伸びるであろう若い選手も多かったですし、プレッシャーはかなりあったのかなと。
 
関塚 プレッシャーはあったし、鹿島で10年、日本人としてコーチをやらせてもらい、その指導者が、監督に挑むなかで、ガッカリされたくなかった。アントラーズのコーチっていうプライドもあったから、なんとかしたいという気持ちは強かったよ。
 
中村 その時、どれくらい先まで見ているものだったんですか? 監督って実現すべき目標とそのためのスパンを常に想定しているのかなと。
 
関塚 そうだね、監督はそのあたりも大事だと思う。自分が当時、求められたのは、とにかく昇格してくれっていうことと、J1に定着し、そこで上位を狙えるチームにしてほしいということ。それが武田信平さん(川崎の元社長)からのオファーだった。だからケンゴは近いうちに監督をスタートすると思うけど、監督のオファーを受けるなら、まずどこの立ち位置からスタートして、クラブから何を求められているのか、そこは明確にすべきだと思うね。
 
中村 恐らくですが、セキさんも就任1年目からもっとやりたいことはあったと思うんです。だけど、融合っていう言葉が相応しいか分かりませんが、今話されたようにクラブからのオーダーやクラブのスタイルと、目の前の現実を、上手くマッチさせる作業にも力を注いでいたのかなと。それにセキさんは全部こうしろみたいな言い方はせず、それぞれの個性も活かしながら、それでもセキさんの色もちょっとずつ出していきましたよね。こうやってチームって変わっていくんだと、僕はすごく学びになりました。
 
関塚 アントラーズでの話をすると、ブラジル人の指導者でも、ジーコを始め、トニーニョ・セレーゾらはイタリアでもプレーし、そのエッセンスを加えていた。だから戦術的な部分と、個人の技量を上手く融合させたような、個性を活かしたチーム作りをしていて、それがアントラーズのひとつのストロングであった。自分はそこで指導者としてやらせてもらってきたから、ケンゴがそう感じたのも理解できるよね。

 鹿島では鈴木満さんが強化をずっと進めて、外国人選手に頼るのではなく、やっぱりJリーグなんだから日本代表選手をクラブとして生み出すんだっていう基本路線もあった。だからフロンターレにいって、ケンゴや我那覇らポテンシャルのある、代表に入っていけるような選手が揃っていたのは楽しみだったよね。それで、クラブとしても高いステージを目指すなかで、トレーニングと試合が上手くつながっていったと思う。
中村 これは言い方があれですが、チームがしっかり進むためには、監督が上手く立ち回らないと、ダメですよね。そこにはコーチングスタッフとのリレーションもそうですし、全体のバランスを考えながら。当時の川崎にはコーチにツトさん(高畠勉)、キーパーコーチにマサさん(古川昌明)、フィジカルコーチにマルセロらがいて、役割分担がしっかりしていた記憶があります。監督のセキさんが全てをやるっていうよりも、練習でもセキさんがやるパート、ツトさんがやるパート、マルセロがやるパートみたいにちゃんと分かれていた。コミュニケーションを取ったうえで、フィジカルはほぼマルセロに任せていましたよね?
 
関塚 そうそう。
 
中村 コーチングスタッフとのリレーションの重要性は指導者講習会で深く学びました。やっぱり監督ってひとりじゃできないなと。
 
関塚 まさにそうだね。
 
中村 いかにコーチングスタッフの方たちと考えを共有し、チームを作っていくかですよね。だから今思い返すと、セキさんとツトさんは少しタイプが違いましたが、当時の川崎はそういう点でもバランスが良かったなと。
 
関塚 ツトは最初はあまり意見を言わずに、俺が伝えたことをキッチリやってくれていたんだけど、その後、どんどん良いパス交換ができるようになったのを覚えているね。それに今ケンゴが言ったように、やっぱり監督はひとりではできないし、それぞれしっかりコミュニケーションを取って、各スタッフに責任を持ってやってもらうようにすることが大事だよね。

 俺が鹿島でコーチをしていた時も、怪我上がりのジョルジーニョや、出場停止のレオナルドらを、トレーニングさせる時は、緊張感があったけど、責任を持ってやるようにと言われていたし、こちらが全力で臨めば、彼らも100パーセントで応えてくれた。そういう積み重ねが、監督をやる時に生きてくる。だから、監督をやっている時も、ひとつのセッションをコーチに任せるのは、そのコーチのやりがいや将来につながると考えていたね。でも大丈夫だよ、ケンゴは、その辺全部分かっているはずだから。
 
中村 そう言っていただけるのはありがたいのですが、実際にやってみないと分からないことも多そうなので…。
 
パート3に続く。

■プロフィール
関塚 隆 せきづか・たかし/1960年10月26日、千葉県生まれ。現役時代は本田技研でFWとしてプレーし、引退後は鹿島でのコーチなどを経て、2004年からは川崎を率い、魅力的なサッカーを展開。その後はロンドン五輪代表、千葉、磐田でも監督を務め、昨年7月から福島のテクニカルダイレクターに就任。
 
中村憲剛 なかむら・けんご/1980年10月31日、東京都生まれ。川崎一筋、バンディエラとしてのキャリアを築き、2020年シーズン限りで現役を引退。その後はフロンターレ・リレーションズ・オーガナイザー(FRO)、Jリーグ特任理事など様々な角度からサッカー界に関わり、指導現場で多くを学んでいる。

取材・文●本田健介(サッカーダイジェスト編集部)

■8月31日はスタジアムへ!
8月31日(土) 18:00
北九州戦(とうほう・みんなのスタジアム)
は「集まれ5,000人!ユナまつり」と題し
様々なイベント(花火やベースボールシャツをプレゼントなど)を企画中!
詳細は下記へ
https://fufc.jp/lp/2024/0831/

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