島田秀平 (C)週刊実話Web

お笑い芸人の島田秀平は、「エロ線」「KY線」など、自ら命名したユニークな手相占いで大ブレイクを果たした。

ただ、売れるまでには紆余曲折あり、順風満帆な芸能生活を送ってきたわけではないという。 そんな手相芸人の知られざる素顔に迫る!

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――手相占いや怪談ネタでメディアに引っ張りだこの島田さんですが、デビューしたのはお笑いコンビ『号泣』でした。

島田秀平(以下、島田)「相方(赤岡典明)とは、幼稚園からの幼なじみ。公文式の塾が一緒だったんです。中学に入ると部活とは別にクラブ活動というものがあり、そこで僕と相方は落語クラブに入ったんですね。
2人ともお笑いが大好きだったものですから。うちらが育った長野県は頑固で真面目な人が多いので、“お笑い不毛の地”と呼ばれているんです。それでも僕らは学園祭に出て、漫才をしていました」

島田秀平 (C)週刊実話Web

中学生なのに下ネタ一辺倒 

――ネタはどんなものを? 

島田「中学生なのに下ネタ一辺倒(笑)。でも、それがドッカンとウケて、勘違いし始めるんですよね。高校は別々だったものの、相変わらず文化祭には2人で出て、ますます増長していきました。その頃になると、地元のライブハウスでやるお笑いイベントにも出るようになっていましたし」 

――高校卒業後、すぐにホリプロ入りですか? 

島田「そうですね。大学に入るのが当たり前の進学校だったので、三者面談で『お笑いをやりたい』と言ったら、先生にもギョッとされましたけど。もう高3の3学期くらいからは、ネタ見せで東京に通っていました。そのまま3月に正式デビューという流れです」 
 

島田秀平 (C)週刊実話Web

――当時は、「俺にはお笑いの才能がある」くらいの自信があったのでは? 

島田「その通りでしたが、いきなり鼻をへし折られました。オーディションの段階で全国からレベルの高い奴らが集まっていたし、特に関西勢は最初から肩ができ上がっている感じで。デビューライブは最悪でした。
その日の司会は『バカルディ』…今で言う『さまぁ~ず』さん。大竹一樹さんと三村マサカズさんがいる楽屋に『島田です』ってあいさつに行ったら、いきなり『島田かよ!』って“三村ツッコミ”を喰らったんですね」 

――見たまんまツッコミを入れるやつですね(笑)

島田「それだけで僕は舞い上がっちゃって、身体がブルブル震える始末。『島田かよ!』というツッコミに気の利いた言葉が返せず、『…はい』と力なくつぶやくのが精一杯でした(笑)」 

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舞台袖から三村マサカズがツッコミ 

島田秀平 (C)週刊実話Web

――ライブの内容自体はどうだったんですか?

島田「あり得ないくらいスベりました。こういうとき、ツッコミってつらいんです。スベったボケに対して『なんでだよ!』とか言ってると、どんどん重苦しい空気になっていくので。もう恥ずかしくて恥ずかしくて、あろうことか僕は顔を両手で覆っちゃったんですよ」

――いたたまれないです。

島田「名前も聞いたことない奴が耳を真っ赤にさせながら、その場に座り込み、それでも『おかしいだろ!』『なんでだよ!』とかツッコミを入れているんだから、完全に異常事態。
それで見るに見かねた三村さんが、ステージ袖から『いや、お前が一番おかしいだろ』って口を挟んでくれたんですよ。そのポロッとこぼした一言がハマって、客席が一気に沸いたんですね」

――いや~、三村さんに救われましたね。

島田「あれがなかったら、心が折れて長野に帰っていたでしょうね。そこから毎月ネタを作ってライブに出ているうちに、NHKで『爆笑オンエアバトル』が始まるんです。それが21歳のときかな。
『ボキャブラ天国』(フジテレビ系)の波が一段落したタイミングでした。オンバトは最初の収録から出ていたし、僕らはあの番組と一緒に歩んだようなところがありましたね」

島田秀平 (C)週刊実話Web

――こうして徐々に有名になり始めるわけですが、当時のモチベーションは? 

島田「当時は今みたいにSNSもユーチューブもなかったから、ネタで結果を出すしかないんですよ。そして最終ゴールは、ゴールデンで自分の冠番組を持つこと。要はダウンタウンさんのパターンですよね。
ところが、そうやってもがいているところで『M-1グランプリ』が始まった。これで流れが一気に変わるんです」 

――『号泣』はM-1でいいところまで進むことも多かったのに、残念ながら優勝は果たせませんでした。 

島田「結局、僕らのコンビが解散したのも、M-1の決勝に進めなかったからなんです。当時のM-1は『結成から10年』が出場資格だったので。相方から『辞めたい』と言われて、それを受け入れる格好でした」