「スポーツは楽しくて心身を健康にしてくれるものであってほしい」怪我と重圧に耐え続けた元バレーボール日本代表・大山加奈さんが感じたスポーツの価値と日々を支える食習慣

 明日への一歩を応援する「Do My Best, Go!」。今回は2004年アテネ五輪にバレーボール女子日本代表の一員として参戦し、現在は解説やイベントなどでバレーボール普及に携わる大山加奈さんが登場。バレーボールを始めたきっかけや代表入りの経緯、ケガとの戦い、2010年に引退した理由、その後の活動、今後の目標、アスリートの食生活まで幅広く語ってくれた。

――大山さんは小学校2年生の時にバレーボールを始めたそうですね。

 先輩に誘われて、練習を見学に行ったのが最初でした。その先輩たちがバレーボールしてる姿がキラキラ見えたのは大きなきっかけになりました。それまでほとんど運動してこなくて、家に閉じこもっていたので、みんなで一緒に何かするとか、みんなで一緒に一つのボールを追いかけるところに憧れを抱きました。

 でも当時は喘息を患っていたので、両親から「バレーボールはダメ」と反対されました。お医者さんからも激しい運動を止められていたので、強く反対したんだと思います。それでも、どうしてもバレーボールがしたくて、両親を説得しました。

 実際に始めてからはすごくサポートしてくれて、お迎えも必ず来てくれましたし、合宿の時も「発作が出たら大変だから」ということで、父がついてきたほどでした。父はバレーボールを少しやっていたので、見ているだけで安心感があったんでしょうね。

――その後、喘息の方は?

 幸いにも3年生になった頃には出なくなっていきましたね。バレーボールを始めてからはすごく楽しくて、周りから期待もしてくれて自分もやる気になって、目標に向かって頑張っていく流れもできたおかけで体も強くなっていった気がします。健康になれたのは本当に大きなことだったと思います。
 ――バレーに打ち込むようになってからはどのような練習を?

 ただただ日本一を目指してバレーボールをしていたんですが、週4日の練習が休みの時は学校の校庭で雲梯をネットに見立てて、妹と友達とずっとバレーボールで遊んでたんですよ。自由な環境で、しかも雲梯がネットなんで、いろんな工夫を考えていましたね。前日テレビで見た日本代表のプレーを真似してみたりとか、普段やらないセッターやってみたりとか、楽しんで自然とスキルアップもできていた時間だったと今はすごく感じます。

 その経験から子供たちとバレーボールキャンプをやる時には自主的なミニゲームを多く取り入れています。基本練習もちろん大事なんですけど、ゲームライクな練習でしか鍛えられないものもありますし、何より楽しいですよね。自分で考えて工夫したりすれば、アイディアも出て、発想力も養われますから、そういうのが大事だと思います。

――小学校6年生の時には全日本バレーボール小学生大会(ライオンカップ)で全国制覇を果たし、成徳学園中学校に進みます。

 中3の時に自分の中で大きなターニングポイントがありました。中1と中2に目標にしていた日本一になれず、中3のラストチャンスを前に「どうしたら勝てるんだろう」「何が自分に足りないのだろう」とすごく考える時間があったんですね。

 そこで気づいたのが、「今の自分が日本一に相応しくないからだ」ということ。当時の私はバレーボール以外のことを全く頑張れてなくて、疎かになってました。中1~中2にかけては、自分にとって一番大事なバレーボールを言い訳にして「練習で疲れてるから」「試合が迫ってるから」という言い訳をして、勉強もしない、家の手伝いも一切しないという感じだったんですよね。

 もう授業態度から良くなかったですね(苦笑)。先生の話を全然、聞いてないとか、寝てるとか…。中学生特有の「真面目にやるのがかっこ悪い」みたいなヘンな感覚に陥っていて、全くダメでした。「だから勝てないんじゃないか」とある時、気がついた。そこからは「日本一に相応しい人になるためにどうすべきか」を真剣に模索し始めました。いろんなことを頑張れるようになって、結果的に中学3年生で日本一になれたんです。やっぱりバレーボール以外のことも一生懸命、頑張れる人じゃないとダメなんだなっていうことに気がついた。それは本当に大きなことでした。

――中学生でそこまで考えられるのはすごいことですが、それは自分で考えついたんですか?

 私自身は自分で気づいたと思っていたんですけど、成徳の恩師である小川(良樹)先生が”考えさせる指導者”だったんですよね。なので、知らず知らずのうちにヒントをくれて、自分で考える時間を持てたのかなと思います。気づきや成長を待ってくれて、自覚を持って行動できたんだなと感じています。

 バレーボールで目標達成するためには、それ以外も頑張らなきゃいけないんだということが分かってからは、勉強も頑張りましたね。高校卒業後には「大山さんは本当に授業中も寝ずに勉強もしっかりやっていたよね」と言われるぐらいになりました(笑)。
 ――成徳中学で3年の時に頂点に立ち、成徳高校に進んでからは、ともに日本代表でプレーした元日本代表キャプテンの荒木絵里香さんと出会います。

 絵里香とは高校2年の終わりくらいまではあまり仲が良くなくて、あんまりコミュニケーションを取っていなかったんです。絵里香は高校からチームに加わった選手で本格的にバレーを始めたのも高校からだったと思います。一方で私はずっと日本一を目指すための環境でバレーをしていたので、スタンスが全く違ったんです。当時の私は「日本一になるためにはこうすべき」「こうあるべき」というのが凄く強かった。

 キャプテンでもあったので、自分の価値観をみんなに押し付けるところがあったんですけど、絵里香はそういうタイプじゃなかった。自分と違う考え方を持つ絵里香のことをなかなか受け入れることができなかったんですよね。

――最初は理解し合えなかったんですね。

 そうなんです。そのまま2年のラストになり、春高バレーの東京都予選で負けてしまった。第二代表で全国大会には出られる状況だったんですけど、東京で負けたことが物凄くショックで、そこで絵里香と大ゲンカをしたんです。

 初めて腹を割って話し合って、実は私と絵里香は態度や行動は違うけれども、本気で日本一を目指しているし、チームのことを本気で考えている。その気持ちは一緒だと分かった。「自分と違う考え方を持つ人のことを排除したらダメだな」ということに気づきましたね。それと同時に「相手の表面上の行動だけを見て、『この人はこうなんだ』と決めつけちゃいけないんだ」ということも学びました。

――完全に気持ちが通じ合ったんですね。

 そこからはお互いに力を合わせてやれるようになり、チームもぐんぐんと強くなっていって、3冠を達成することができました。あの時ケンカしてくれて、怒ってくれた絵里香に本当に感謝ですね。それまでの私は遊びがないタイプで、「バレーやってる時は笑うな」みたいなことを言ってしまう人間だったと思います。だから絵里香みたいな「もっと感情を爆発させていい」「チャンスボールは私が決める」みたいな考え方に触れて、肩の力が抜けたんですよね。日本一になるためには、それぞれで違うやり方もあると分かったし、もっとみんなが伸び伸びやっていいんだと思えた。自分自身に大きな気づきを与えてくれた出来事でした。
 ――6年間師事した小川先生の存在も大きかったんでしょうね。

 小川先生の素晴らしいところは「否定から入らない」ということ。絶対に私たちを否定しないんですよね。どんなことがあっても、まず共感や肯定をしてくれた上で、どうすべきかを考えさせてくれるような言葉がけをいつもしてくれました。

 やる気が全く湧かない、モチベーションが上がらない時期がありましたけど、「カナは世代のトップをずっと走ってきたんだから、そんな時期があるのは人として当たり前だよ。いつもいい子という必要はないよ」と声をかけてくれましたね。「またモチベーション上がった時にカナが困らないように最低限のトレーニングだけはやっておいた方がいいんじゃないの」といった優しい言い方をしてくれました。

 どんなときでも「やる気を出せ」と厳しく指導をされる方もいるかもしれませんが、先生は全くなかった。一番大事にしていたのは「バレーボールを嫌いにさせないこと」だったので、それは今も本当に大事だなと思いますし、バレーボールと携わる上での自分の軸になっています。

――長期的な目線で選手を育てようとしていたんでしょうね?

 そうですね。私とか絵里香みたいに大きい選手を他の選手と同じ練習量にしてしまうとケガなどのリスクがあるということで、休みも多かったですし、レシーブ練習のボール出しとか、みんなに分からないように少し練習の強度を下げてくれていたみたいです。先生から直接聞いたわけではなくて、卒業してから何かのインタビューで先生が答えているのを初めて見て知りました。「そうだったんだ」とビックリした覚えがあります。
 ――小川先生らしいアプローチが奏功し、高校時代に成果を挙げて、2003年に東レアローズ入り。同年のワールドカップで大活躍して「メグカナブーム」で日本中を湧かせました。

 あのワールドカップはコートに立っていて本当に楽しかったですね。自分のプレーが通用する部分もありましたし、お客さんが試合を重ねるごとに増えていきましたし。最初はアイドルグループの応援うちわばっかりだったのが、徐々に私たちの名前変わっていったんですよ。それにすごく感動したし、「それだけのみなさんにバレーボールの面白さが伝わっているのかな」と思えて嬉しかった。重圧とか重荷も感じませんでしたし、本当に多くの人が見て、応援してくれているだけで純粋に喜んでいましたね。

――未来への希望に満ち触れていた大山さんでしたが、2004年アテネ五輪が近づくにつれて徐々に顔が曇っていく印象がありました。

 腰がとにかく悪くて、ワールドカップが終わった後のリーグでも動けないくらいになってしまったんです。セミファイナルという大事な試合に出られない状態まで陥ったのに、そのまま代表に行っていました。それが2004年春のオリンピック直前の頃には練習がかなりきつくて、ケガでパフォーマンスも出せない。でもメンバー選考は当落選上でしたし、やらないといけない。そういう難しい状況のなか毎日すごく怒られて、頑張れば頑張るほど腰が痛くなる、パフォーマンスが落ちる…という悪循環になってしまった。本当に辛い状況でしたね。
 
 結局、5月のオリンピック予選もあまりコートに立つこともできずに終わってしまった。12人に残るか残らないかというギリギリの状況で、本当にキツかったし、いろんな面で追い込まれていましたね。
 ――それでもアテネ五輪はメンバー入りし、初めて大舞台に立ちました。

 正直、ほとんど記憶がなくて、もう余裕もなくていっぱいいっぱいでした(苦笑)。記憶に残ってるのは、初戦・ブラジル戦でテンさん(竹下佳江=ヴィクトリーナィ姫路代表)の1本目のサーブがアウトになったこと。「テンさんがこんなミスをするのか」と思ったんですよね。もう1つは、準々決勝・中国戦の最後に相手のジャンプサーブが自分のところに飛んできて、それを弾いて、オリンピックが終わったこと。この最初と最後の2本は鮮明に覚えているんですけど、それ以外はポッカリ空いている感覚です。

 せっかくのオリンピックなので本当はもっと楽しみたかったですね。記憶がないのはすごく悲しいし、選手村の写真もないし、他の競技の選手と交流もなかったんで、もったいないオリンピックになってしまった。

――悔しかったアテネ五輪の後もケガで苦しみました。

 アテネの後、1回バレーボールから離れたんです。腰の状況がよくなかったんで、リハビリに専念したんです。でも国際大会が国内で開かれると招集されて、コンディションが中途半端なまま代表行って、また離脱することの繰り返しで、あれはすごく後悔してます。

「代表に来てほしい」と呼ばれると嬉しくて、「北京オリンピックには行きたい」という思いも強かったんで、無理をしてしまいました。しっかりと心も体も万全な準備ができてから行っていれば、違う未来だったんじゃないかなという思いもある。やっぱり中途半端に競技復帰するのはよくないなと痛感してます。
 ――北京五輪への出場は叶いませんでした。

 手術を決める前に「手術すると競技復帰できないかもしれない」「北京も間に合わない」というのがあったので、2週間入院してひたすらベッドの上で点滴するという対処療法もしました。それでもやっぱりダメで、結局、北京オリンピックの最中に手術を受けることになりました。実際、本当にひどかった。日常生活がままならなくて、寝返りも打とうとするともう激痛があって泣きながら寝返りするぐらいのレベルでした。歩くことも結構大変だったので、手術するしかない状況でしたね。

――そこまでしても現役生活を続けようと思ったのは?

 私の病気は脊柱管狭窄症だったんですけど、通常は高齢者の発症が多いと言われていて、若い人には珍しかった。しかも、競技復帰した症例がないと言われて、「だったら、私が」と思ったんです。自分のためにもなるし、誰かのためにもなる。やる価値があるなと考えました。最初は「もう引退しようか」と思って、東レの監督と話をしようと思っていましたが、ふとその考えが浮かんだ。「私が復帰した一人目になるぞ」と。それで奮起しました。

――術後はどんな状況だったんですか?

 数年ぶりに痛みから解放されて、真っ直ぐ立てるようになったからすごくハイテンションでした。人って姿勢が上がるとポジティブになるんですよね。生まれ変わった感覚になりました。「ここからが私のバレーボール人生の第2章スタートだ」という前向きな感覚になっていました。ただ、そんな私を見て、小川先生だけが「カナがあの状態は危ない」と話をされていたそうです。結局、また痛みが出て、そこで心が折れてしまった。小川先生の予言通りになりました。本当に先生の経験値と観察眼はすごいなと思います(笑)。

――2010年6月の引退時はまだ26歳でした。

自分としては限界でした。またリハビリを頑張る気力が湧いてこなかった。それでも、多くの人を裏切ってしまうと思っていたから引退をすぐに決断できなかったんです。ケガをして、戦力にならない私を何年も支え続けてくれたチームには金銭的にもサポートしてもらったので。会社、ファンの方、そして何より親ですよね。

 悩んでいるとき親は私が引退を考えてるんだろうと察して「カナは自慢の娘だから胸張って帰っておいで」と言ってくれた。それで決断できました。多くの人を裏切ってしまうけど、親がそうやって自慢の娘だって思ってくれるんならやめてもいいなと考えることが出来ました。

――引退後のビジョンはありましたか?

 保育士さんになりたいと思っていたんですけど、腰がムリだなと。それならバレーボール界に恩返しをやっぱりしたいと考えて、東レに籍を置いたまま、Vリーグ機構に出向しました。ただ仕事は事務作業がメインで「これって私じゃなくてもいいのかな」と感じて、私ならではの恩返しの方法を考えたいと思って1年で東レに戻りました。その後は広報室に籍を置かせてもらって、バレーボールの普及活動や応援、解説をメインにして、現在に至っている感じです。
 ――新たなキャリアのやりがいは?

 必要とされることが嬉しいですね。現役最後のあたりは「自分はチームに必要ないんじゃないか」という気持ちを持ってしまってすごく辛かったんですけど、仕事をしてみなさんが喜んでくれたりする姿を見て、すごくモチベーションが湧きましたね。

 多い年だと子どもたちへの指導が40回、講演が40回というくらいの活動をしていて、網走や稚内、久米島とか人生で初めての場所にも行かせてもらいました。そこで小学生や中学生が喜ぶ姿を見て、こんな幸せな仕事はないなと感じています。「チームの監督が怖くてやめてしまったけど、このキャンプに来てバレーボールって楽しいなって思えた」と話してくれた子がいました。バレーの世界は怖い大人だけじゃないんだと伝えられて良かった。子どもだと目の前の環境しか知らず逃げ場がないこともあると思います。少しでも視野を広げる機会になってくれたらいいなと思って取り組んでいます。

――私生活では2020年には双子のお子さんを出産され、お母さんになりました。

 メンタル的にすごく変わりましたね。見返りを求めてこられなくなったと言うか、120%の純粋な愛をくれる存在と言うのかな。「こんなに自分を必要としてくれる存在がいるなら、嫌なことあっても別にいいか」と思えるくらいになりました。

 どんなお仕事も同じだとは思いますが、特にアスリートっていつも評価されてるじゃないですか。そういう中で、どんな自分でも認めてくれ愛してくれる存在がいるっていうのは本当に救われるなと。それを痛感しています。

――現在はWEリーグの理事やヴィアティン三重の女子のエグゼクティブアドバイザーの仕事もされていますが?

 いろんな競技の理事をやらせてもらっているんですけれど、元アスリートの立場であったり、働く女性という立場で物事を捉えてほしいという要望をいただいています。ただ、まだ十分にやれている実感がなくて、どちらかというと、私が理事会で勉強させてもらっているような感覚ですね。この経験を先々のスポーツ界に還元できたらなと思っています。

 PDMに関しては、スポーツ界やアスリートに必要な存在という認識があります。自分自身も現役時代にPDMのような人がそばにいてくれたら、違ったんじゃないかと思うので。アスリートが何かあった時に「この人に話したい」「この人なら話せるな」と思ってもらえる存在でありたいなと考えています。実際、アスリートが弱音を吐ける場所ってなかなかないと思います。「アスリート=強い人間」と見られがちで、自分を追い込んでしまい弱さを見せられない選手が多いと思うので、PDMが元アスリートであれば弱音も吐きやすいんじゃないかなと思っています。

――スポーツを頑張っているジュニアアスリートへのアドバイスをいただけますか?

 スポーツは本来、心身の健康を作ってくれて、エンジョイするものだと思うんです。でも、そうではなくアスリートを追い込んでしまうケースも多いのかなと思います。だからこそ、「何のためにスポーツやっているのか」というところを大事にしてもらいたいです。目標に向かって頑張ることも大切だし、素敵なことです。それ以上に「何のために」「なぜやっているのか」、そして「自分がどうなりたいか」をイメージしてもらえるといいかなと私は思っています。
 ――大山さんは子供時代から規則正しく、栄養バランスの取れた食事を心がけていましたか?

 いえ、全然でした(苦笑)。でも食べることは大好きで、とにかくよく食べてましたし、出されたものは残さず食べるということは意識してました。「残さず食べろ」という教育は、母からも小学校の監督からも割と徹底されていたので、頑張って食べていましたよ。

――好き嫌いは多かったんですか?

 そんなに多くはないんですけど、ミョウガの味噌汁とかはちょっと子供の味覚には難しかったですね(苦笑)。割と母が作るメニューだったので、「嫌だ」と言っても「食べなさい」っていう感じでした。それ以外だと、なすの味噌汁も苦手でしたね。当時はなすが大嫌いだったけど、これも食卓によく出てきましたね。

――大山さんは10代の頃から日本代表入りしていますが、栄養士さんからの指導とかを受けていたんですか?

 代表活動の時は栄養士さんが作ってくれたものを食べるという感じで、栄養指導を受ける機会はなくて自分にもそこまで栄養に対する高い意識は持っていなかったです。高校時代だとお昼こそお弁当でしたが、朝食は購買やコンビニのおにぎりとかパンで済ませることもありました。

――東レに入ってからはどうでしたか?

 寮で食事をするようになったので、バランスの方は改善されましたが、便秘が結構ひどい体質だったので、食物繊維を摂取するように心がけていました。発酵食品の納豆や漬物、キムチは出された食事以外に自分でも用意して食べていました。きのこに腸内環境を整える効果があるということで、栄養士さんが作ってくれるご飯には頻繁に出てきたおかげで、今も家に常備しています。 

――腸内環境を整えるのにきのこが効果的と言われていますが、きのこを使った料理で好きなものはありますか?

 味噌汁が好きですね。あとはバター炒めがおいしいですよね。ウチでも今、ベーコン炒めをよく作っています。一番使うのは、しめじですね。やっぱり使い勝手がいいので。しいたけも好きですし、エリンギも好きですし、まいたけもおいしいです。冷蔵庫に入ってる率は高いです。きのこを摂ったり、発酵食品を食べることで便秘になりやすい体質も改善されていきました。――大山さんにとって、ベストパフォーマンスを出すための食事というのは?

 これというのはないんですが、和食の方が力は出るなというのが肌感覚としてありました。一番好きな食べ物はおにぎりなので、おにぎりを食べると元気になりますし、テンションも上がりますね。

――食べる量は?

 意識していたわけじゃないんですけど、本当によく食べていました。小学校の高学年から中学生くらいの成長期の頃は、母が作ってくれたおにぎりを10個、一気に食べたこともありますよ(笑)。食べるのが大好きで、妹(元バレーボール・ビーチバレー選手の未希さん)と取り合いながら食べてました。

 今、自分が食事を作る側になってみると、おにぎりを10個も握るだけで手間がかかりますし、当時の母はから揚げを2キロくらい揚げてくれましたが、もし将来、自分がそれを用意するとなったらちょっと嫌ですね(笑)。

――今、親になってお子さんの食事について考えることは?

 タンパク質がどうしても少なくなりがちなので、しっかり摂らせることを意識したり、野菜もそんなに食べてくれるわけじゃないんで、いかに野菜を食べてもらえるメニューを作るかということは考えています。

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大山加奈/おおやまかな
1984年6月19日生まれ/ライツ所属/東京都江戸川区出身
成徳学園中学校―成徳学園(現下北沢成徳)高校―東レアローズ

 小学校2年生からバレーボールをはじめ、小学校6年時の前日本バレーボール小学生大会(ライオンカップ)で全国制覇。「バレー界の金の卵」と注目される。成徳学園中学校時代には3年時に全国中学校大会制覇。成徳学園に進んでからも高校3年で高校総体、国体、春高バレーの三冠を達成。小中高全ての年代で頂点に輝いた。

 高校時代の2001年に日本代表に初選出され、2002年5月の日米対抗でデビュー。同年の世界選手権とアジア大会(釜山)では唯一の高校生プレーヤーとして試合出場を果たす。2003年に東レアローズに入団。同年開催のワールドカップでは栗原恵(当時NECレッドロケッツ)とともに「メグカナ」と呼ばれ、19歳コンビが5位躍進の原動力となる。2004年アテネ五輪にも参戦。日本の新エースとして期待が高まったが、持病の腰痛が悪化。思うようにプレーできなくなる。2008年北京五輪期間に手術に踏み切り、完全復活を目指したが、2009年に再発。26歳になったばかりの2010年6月末に現役引退を決断した。

 その後は日本バレーボール機構への1年間の出向を経て、東レに復帰。広報室に籍を置いてバレーボールの普及活動や解説業を手掛ける。2015年に結婚し、2020年に双子の女の子を出産。現在は子育ての傍ら、WEリーグ理事やヴィアティン三重女子のエグゼクティブアドバイザーにも就任するなど、公私ともに精力的に活動をしている。