小林悠×太田宏介スペシャル対談。結果を見て悔しくて携帯を投げ捨てて(笑)。メラメラなライバル関係や感動的な代表での共演

 幼少期からライバルとして意識し、それはプロの世界に挑んでからも変わらなかった。互いの存在があったからこそ、ここまで歩んでこられた。ふたりは口を揃える。スペシャル対談の第3弾は学生時代のエピソードや、揃って日本代表のピッチに立った記念的な試合の思い出などをメインにお届けする(全4回の3回目)。

――◆――◆――

――改めて太田さんが昨季限りで引退すると聞いた時、小林選手はどんな想いだったんですか?

小林 でも、引退する1年前、年末の同窓会で『来年辞める』とは聞いていたんですよね。だからそこまで驚きはなくて。

太田 それに子どもの幼稚園が一緒だから、週2、3ぐらいで会う時もあって、そこでよく話していたからね。

小林 そりゃ寂しさはあったよ。でも気持ちはめちゃくちゃ良く分かったから。『そうだよな、お疲れさまって』って。宏介はライバルとして常に先を走ってくれて(太田は高卒、小林は大卒としてプロへ)、宏介に追いつきたくて俺はずっと頑張ってこられた。だから感謝しかなかったね。

――おふたりはずっと切磋琢磨されてきましたから。

小林 ただひとつクレームがあって(笑)。インタビューか何かで宏介は『昔は悠に敵わなかった』って話していて、確かに小さい頃はそうかもしんないけど、それは小学校までなんですよ。中学からは俺が追いかける立場で悔しさもあったのに、宏介は『悠は天才だった』とか言うけど、それは違うと!! そこを訂正してもらいたい(笑)。

太田 でも、小学生の頃の悠は本当に凄かったし、悠のチームはめちゃくちゃ強かったんです。応援団とかも付いていて。それで選抜とかで一緒にプレーしていて、親同士も仲良かったから悠のお母さんの勧めで同じ高校にも行けて。

小林 でも高校では宏介は1年からずっと試合に出ていて、俺はBチームとかだったからね。

太田 高1の時、悠、めちゃくちゃ小さかったんだよね。

小林 宏介は当時から結構大きくて。

太田 でも身長の伸び率が凄まじかった。高校3年間の写真があって、シュンっていう背が高い友だちとの比較が面白くて(笑)。

小林 俺らスポーツクラスだったので、3年間同じクラスなんですよ。だから、あいうえお順も一緒で。

太田 で、悠の隣にはそのシュンという大きい友だちがいて、最初は背がすごく離れているのに、2年で並んで、3年で越していた。

小林 そうそう!!

太田 あれ40センチぐらい伸びたよね(笑)

小林 そんなわけないだろ!! でも、15、6センチ伸びたのかな。自分でも気持ち悪かった(笑)。でも今こそ笑い話ですが、当時はコンプレックスだったよ。技術には自信があったけど、スピードもないし、みんな成長期で身体が強くなっているし、なんで自分だけみたいな、悔しさが。何も通用しなくてサッカー辞めたいとも思っていたから。

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――高校時代がそのようなスタートだったら、中学時代も太田さんの方が輝いていた?

太田 いや、中学時代はどっちも輝いてなかったです。

小林 どっちも暗黒時代だね(笑)。小学校は東京選抜とか関東選抜に入っていたけど…。

太田 中学ではふたりとも行方不明になっちゃった(笑)。

小林 そうそう(笑)。

太田 それで高校入ったぐらいで、ちょっとふたりとも茂みから出てきて(笑)。俺のほうが一歩リードして国体や横浜FC入りを叶えてという形だったね。

小林 だから俺はやっぱり宏介の背中を追っていましたね。大学時代(小林は拓殖大に進学)は宏介はプロで、自分は関東2部。4年間、宏介がJリーガーとして活躍している姿を見ていたから。

太田 俺はその頃、ワールドユース(U-20ワールドカップ)を経験できて、横浜FCから清水への移籍も決断して。

小林 俺、清水へ応援に行ったもん。

太田 その時、悠が大学3年かな。水戸の強化指定選手になると聞いて、その後、フロンターレに入った。確かあの時も、選択肢がいくつかあったんだよね?

小林 あったね。

太田 そこで悠は1番ハードルの高いフロンターレを選んで、すげえなと思っていた。多分最初に対戦したのは(小林がプロ2年目の2011年の)日本平(現・IAIスタジアム日本平)。悠にヒールキックで点を取られた。

小林 あれだよね、覚えているよ。

太田 俺は超悔しくて。若い時ってもうライバル心メラメラで、悠の活躍に俺は嫉妬していて(笑)。またゴールを取った、クソ、みたいな(笑)。結果をチェックした携帯を投げ捨てて何個壊したことか(笑)。

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――でもそれだけ切磋琢磨できる相手がいたというのは大きいですね。

小林 ふたりで一緒に日本代表に入った時はめっちゃ嬉しかったよね。

太田 あれは本当忘れられないね。アギーレさんの時。

小林 ふたりとも母子家庭で育ったので、試合があったシンガポールに、お互いの母親を招待して。

太田 そうそう、ブラジル戦(親善試合)ね。

小林 自分らの泊っているホテルの隣くらいの部屋を予約して、その意味でも記憶に残る試合だよね。

太田 あの時、母校にも「太田宏介、小林悠、日本代表おめでとう」と垂れ幕を飾ってもらえて。学校にも恩返しができた想いだったね。

小林 そうそう、それも本当嬉しかった。

太田 ブラジル戦のひとつ前の国内での親善試合、ジャマイカ戦で俺がクロスを上げて、悠がヘディングしたんだよ。ラスト1、2分で。結構良いボールで。悠がそこで決めていたらめちゃくちゃ良いストーリー完成したのに…それ枠外かい!!、みたいな(笑)。

小林 あれは決めたかったな(苦笑)

太田 デンカビッグスワンスタジアムでの試合で。ふたりともベンチスタートで、悠のほうが残り15、20分くらいで先に呼ばれた。俺はそれをゴール裏のウォーミングアップゾーンで見ながら「俺も呼べ!!」と心のなかで叫んでいて(笑)。で、ラスト5分ぐらいで俺も呼んでもらえて、ショートコーナーをいきなりもらって、どうしようと思いながら、相手との1対1で仕掛けて、悠にクロスを上げた。あとは決めるだけだったのに…。あれが現役で唯一の悔いかな(笑)。

小林 あれは本当、申し訳ない(笑)。

――その意味ではプロでふたりの関係性から決めたゴールはないわけですね。

小林 太田 ないっすね。

――当時、太田選手が海外移籍した時も小林選手は刺激を?

小林 めちゃくちゃ刺激になりましたね。率直に凄いなと思ったし、本当にオランダ行った時は『行ったわ!!』と思って

太田 そしてすぐ『帰ってきた!!』って(笑)。

小林 早かったからね(笑)※太田は約1年、オランダのフィテッセでプレー。

太田 寂しかったんだよ(笑)。今みたいに周りに日本人選手も全然いなかったから。

小林 確かに当時と今では状況が違うからね。
――でもふたりで刺激あったからこそ、ここまでの歩みがあるわけですね。

小林 それは間違いないですね。

太田 それはめちゃくちゃ大きかったよね。地元も一緒で、小さい頃から切磋琢磨してきた仲間がJリーグ、そして日本代表で一緒にプレーできるなんて滅多にあることじゃない。ふたりとも決してエリートではなかったし。だからこそ、この先の長い人生も何か一緒にできたらと願っていて。地域の子どもたちに、経験を還元できる活動とかもやっていきたいよね。

小林 宏介は色々そういう事業をやっているから、いつでも呼んでよ。

太田 それにこの間、京都の福知山でサッカー教室のような活動をやってきたのだけど、そこで悠のユニホームを着た子どもたちがいたよ。兄弟で、しかも今年のユニホーム。悠のことが好きで関西で試合が行なわれる試合には、そのユニホームを着て応援に行っているんだって。

小林 本当に⁉ それはめちゃくちゃ嬉しいな。

太田 そういう光景を見ると、想像している以上に、応援してくれている人って多いって気付くよね。悠もそれだけの影響力があるってことだよ。

――先ほど小林選手が点を取ると等々力が盛り上がるという話をしましたが、そうやって元気をもらっている人が多いってことですね。

太田 もう王貞治さんが打った翌日ぐらい盛り上がりますから(笑)。

小林 それは逆に王さんに怒られるわ(笑)。

太田 王か悠かってね(笑)。

小林 全然、上手くないから(笑)!! でも本当に応援していただいている方はありがたいですね。そういう人たちのためにも、もっと頑張らないと。

――まだまだこれからですね。

太田 フロンターレにはひとつ上の家長(昭博)くんもいるからね。

小林 いやそうなんだよ。そしてソンさん(チョン・ソンリョン)も。上の人たちはまだまだ元気だから。

取材・文●本田健介(サッカーダイジェスト編集部)

■プロフィール
こばやし・ゆう/1987年9月23日生まれ、東京都出身。177㌢・72㌔。町田JFC―町田JFC Jrユース―麻布台附渕野辺高―拓殖大―川崎。J1通算388試合・141得点。日本代表通算14試合・2得点。川崎サポーターに愛され続ける魂のストライカー。

おおた・こうすけ/1987年7月23日生まれ、東京都出身。179㌢・78㌔。つくし野SSS―FC町田―麻布台附渕野辺高―横浜FC―清水―FC東京―フィテッセ(オランダ)―FC東京―名古屋―パース・グローリー(オーストラリア)―町田。J1通算296試合・11得点。日本代表通算7試合・0得点。レフティSBとして活躍し、昨季限りで現役を引退。現在は町田のアンバサダーなどを務める。