ブラジルのフットボール史上でも有数のシンデレラボーイだろう。
強烈なパワーと旺盛な闘志、的確な判断力に加え、快足ウイングにも負けないスピード、そして優れた足下の技術を備える。身長184センチとCBとしては決して大柄ではないが、ジャンプ力が豊かで、空中戦にも強い。
ブラジルの名門クラブ、コリンチャンスで23年4月末にプロデビュー。たちまちレギュラーとなり、わずか4か月後にプレミアリーグのノッティンガム・フォレストに移籍すると、ここでもすぐに定位置を手に入れた。そして24年11月、22歳にしてセレソンに初招集されたのである。
サンパウロ出身。父ファビオさんが大のコリンチャンス・ファンで、息子が純白のシャツと黒いパンツをまとってプレーする姿を見るのが夢だった。
6歳でフットサルを始め、家ではファビオさんの指導を受けた。ところが、10歳の時にファビオさんが急死。落ち込む息子を、母ローザさんが懸命に支えた。
スモールクラブのアカデミーでプレーした後、19年、16歳でコリンチャンスのU-17に加入。以後、U-17とU-20の中心選手となったムリーロは、昨年1月、トップチームに昇格した。
当初は5番手のCBという扱いだったが、4月26日、コパ・ド・ブラジルのレモー戦に途中出場し、マークを命じられたCFを完封。その3日後のブラジル全国リーグ、パルメイラス戦にフル出場すると、以降はチームにとって必要不可欠な選手となった。
【動画】フォレストで躍動したムリーロのプレー集
本人が「絶対に忘れられない。大きな自信を掴んだ」と振り返る試合がある。23年5月31日、コパ・ド・ブラジルで強豪アトレチコ・ミネイロと対戦した一戦だ。その試合でムリーロは、元ブラジル代表CFのフッキを密着マークした。
当時、36歳ながら国内最高のストライカーのひとりとして活躍していたフッキを止められるDFはいなかった。一方、ムリーロは21歳で、プロになってまだ11試合目だった。
しかし、1対1のデュエルでフッキをほぼ完璧に封じ込め、国内メディアから「あのフッキをポケットの中に入れた(手玉に取ったという意味)」と絶賛された。
以後、コリンチャンスの守備の柱となったムリーロのもとには、ナポリやセビージャなど複数のクラブからオファーが舞い込んだ。そして23年8月末、推定1600万ユーロの移籍金でプレミアリーグの古豪ノッティンガム・フォレストへと渡す。前述の通り、この新天地でもすぐにレギュラーを掴んだムリーロは、現在も成長を続けている。
そんなムリーロをセレソンに招集したドリバウ・ジュニオール監督は、「プロになってまだ1年半の若手をなぜ?」と記者に質問されると、「彼には以前から注目していた。大いに期待している」と笑顔を浮かべた。
はたして今後、さらに大きなクラブへとステップアップし、セレソンにも定着するのか。ブラジルにまた一人、将来が楽しみなCBが現われた。
文●沢田啓明
【著者プロフィール】
1986年にブラジル・サンパウロへ移り住み、以後、ブラジルと南米のフットボールを追い続けている。日本のフットボール専門誌、スポーツ紙、一般紙、ウェブサイトなどに寄稿しており、著書に『マラカナンの悲劇』、『情熱のブラジルサッカー』などがある。1955年、山口県出身。
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