ラーメン日本一のオヤジを支えた息子に父がラーメン作りを一切教えなかった理由「ラーメンは教えるものではない。なぜなら…」

「日本ご当地ラーメン総選挙2024」で福島県の「白河ラーメン」が日本一に選ばれた。今回、その白河ラーメンで出店したお店は74歳の店主・小白井邦夫さんが営む「火風鼎」。同店がご当地ラーメン日本一になるまでには、子どもの頃から「オヤジのラーメンが日本一だ」と信じ続けてきた息子の存在があった。(前後編の後編)

オヤジが息子にだけは麺打ちを教えなかった理由

1980年創業の老舗で、店主の小白井邦夫(こしらい・くにお)さんが一代でその地位を築き上げてきた「火風鼎」(かふうてい)の味を日本一にしようと、今回エントリーを持ちかけたのは店主・邦夫さんの息子で、栃木県那須塩原市で「手打 焔」(ほむら)を営む小白井誉幸(たかゆき)さんだ。

「小学校2年の文集から将来の夢に『お父さんのラーメン屋を継ぐ』と書いてきました。結果、自分は別のラーメン屋をやることにはなりましたが、オヤジのラーメンが日本一だと思っていることには変わりはありません。

小学校時代から憧れのオヤジで、オヤジのラーメンが日本一だとずっと思ってきたので、それが現実のものになって本当に嬉しいです」(誉幸さん)

誉幸さんは1983年生まれ。「火風鼎」が1980年創業なので、生まれた頃にはもう実家はラーメン屋だった。誉幸さんが小学生の頃には白河駅前にあり、あまりお客さんは入っていないお店だった。

それでも、当時から誉幸さんは父のラーメンが日本一だと思っていた。将来はこの店を継ぐと心に決めていた。その後、店は白河市鬼越に移転してから大ブレイクした。

「オヤジは昔からポテンシャルはあったと思っています。人間力やカリスマ性も含めてすごかったなと。(移転してからは)どんどん取材が来るようになって、誇らしかったです」(誉幸さん)

高校2年ぐらいから麺打ちを始め、東洋大学に通うようになってからは木曜日までに授業を全部取り終え、週末の金・土・日は白河に帰って麺打ちをするという生活だった。帰省するたびに誉幸さんは300人前の麺を打っていたという。

「自分はどんどんラーメン作りを覚えたかったのですが、父はまったく教えてくれないんです。それが大変でした。初めて麺を作ったとき『こんなの使えねえ。捨てろ』と言われ、さすがに恨みましたね」(誉幸さん)

これだけやる気があるのになぜ教えてくれないのか誉幸さんはずっと疑問に思っていた。ある日、父にそのことを尋ねたことがある。

「オヤジは『教わったものというのは、教えてくれた人がいなくなったらダメになるものだ』と言ったんです。自分で自分の味を作り上げることが大事だということを教えたかったんだと思います。
『火風鼎』の麺は門外不出だと思われているかもしれませんが、実はオヤジはいろんな店に製麺を教えています。ですが、息子の自分には教えてくれないんです」(誉幸さん)

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震災で東京のお店を撤退した父子のラーメンの行方は…

大学卒業後、誉幸さんは本格的に店に入って働くようになった。

その後、東洋大のある東京・白山に支店をオープンし、誉幸さんが店長としてお店に立つ。その翌年、表参道にも支店をオープンし、父と二人で店を切り盛りするようになった。

しかしその頃、東日本大震災が発生し、福島県は風評被害で大変なことになる。ここは東京のお店は閉めて本店の営業に集中しようということになり、再び白河に帰る。

「当時、福島には住めるか住めないかというぐらいのレベルでした。白山のお店もクオリティがまだまだでしたし、一からやり直す思いで白河に戻りました」(誉幸さん)

誉幸さんはこのとき、自分のラーメンを見つめ直したという。

自分が打った麺はなかなかスープが持ち上がらないので、油でごまかすしかなかった。一方で、父のラーメンは油分がほとんど浮いていないのにしっかりスープを持ち上げる麺になっている。友人にも「全然おいしくないね」と言われ、一から麺打ちやスープを練り直していくことにした。

自身のラーメン作りを試行錯誤している間に、白河出身の知人が営む栃木県那須塩原市のラーメン店が閉店するという話が飛び込んできた。もう一度、自分の店をやりたいと考えていた誉幸さんは、この店の跡地で自分の店をオープンすることにした。

こうして、震災後の2011年秋、「手打 焔」はオープンした。

昔から(栃木県の)黒磯や那須塩原は誉幸さんの大好きな場所で、父ともよく遊びに来ていたそうだ。このエリアの人は白河に行ってラーメンを食べることが多く、白河ラーメンにも馴染みのある土地である。

しかし、オープンから3年間は鳴かず飛ばずの日々が続いた。1日20杯しか出ない日もざらにあった。当初は、朝3時に起きて白河に行って仕込みをして戻ってきて営業という日々が続き、メンタル的にもつらい日々だったという。

自分に父と同じラーメンは作れない。

そう思った誉幸さんは、「火風鼎」で学んだことをベースにしながら独自の味を追求し続けた。スープは、鶏とゲンコツを7種類使い、清湯ながら分厚い旨味。手打ちならではの麺は、柔らかい部分と硬い部分があって食感も楽しく、少しざらっとした麺肌も素晴らしい。

チャーシューはスモーキーに仕上げた突き抜けるおいしさで、味のアクセントになっている。白河ラーメンスタイルをブラッシュアップさせた最高の1杯が仕上がった。