俳優、モデルとしても活躍し、近年は新美術展新人賞・第70回記念賞を受賞するなど、画家としてもその頭角を表す新井舞衣さん(28歳)。彼女は2016年9月、都内で大型トレーラーに撥ねられ、生死の境を彷徨った。救急搬送時は出血多量で意識不明の重体であり、右頸部内頸動脈損傷、外傷性くも膜下出血など、60もの診断がつく重篤な状態だったという。
奇跡的な生還を経て、「生き仏になりました」と自称する新井さんが、どん底から這い上がるときに大切に持ち続けた矜持は何か。
◆事故当時は20歳「奇跡的に生かされた」
――新井さんの代名詞にもなっている“生き仏”ですが、これにまつわるエピソードをまず最初にお聞かせいただけますでしょうか?
新井舞衣(以下、新井):当時、20歳だった私は、事故後すぐに集中治療室で処置をされ、生きるか死ぬかの瀬戸際でした。なかでも頭部はかなりのダメージを負い、診断は「右頸部内頸動脈損傷」。脳につながる大きな2つの血管のうち、今でも右側の血管は塞がってしまったままなんです。正直、ここまでの事故では助からない可能性の方が高かったくらいで、事実、医師からは「いつ最悪の事態があってもおかしくない状態」という緊張感のある言葉が飛び出したそうです。
奇跡的に生かされたわけですが、噂を聞いた近所の住職さんが、ご丁寧に実家にご挨拶にいらっしゃいました。それは、私の地蔵を作りたいという話だったんです。これは私自身の回復祈願の意味もありますが、同じような悲惨な事故を経験された人が社会復帰できるようにという願いを込めて建立されています。
◆芝居が「リハビリに相当すると気づいた」
――そのような悲惨な事故から無事に復帰された新井さんですが、それまでの道程は壮絶だったと思います。つらい経験を経てもなお、現在のように表現活動をしたいと思うモチベーションの根源には、どんな思いがあるのでしょうか?
新井:当たり前ですが、事故に遭う前の私は普通に生活をしていて、予定をたくさん入れていました。それはプライベートで友達と会う約束だったり、芸能関係のオーディションだったり、さまざまです。しかし事故によってそれらはすべて消し飛んでしまいました。
そうした平穏な日々を早く取り戻したいという思いで、リハビリに臨んだのを覚えています。病院内のリハビリでは私と同年代の人はいなくて、高齢者が多かったため、もう少し近い年代の人と切磋琢磨したいなという思いがずっとありました。ふと振り返ったとき、私にとっては同年代の子たちと一緒に動いたりすることのできるお芝居が、リハビリに相当すると気づいたんです。
もちろん事故以前もお芝居には真剣に取り組んできたつもりですが、それに加えて、復活へ向かっていく証や決意のような意味を持ち合わせたことは、大きな意味があったかもしれません。
◆事故以降の人生は“アナザーストーリー”
――事故の前後で変わった価値観、あるいは気づくことができた気持ちなどについて伺えますでしょうか?
新井:周囲にいてくれる人の支えに改めて気づくことができました。ICUを出てからは、毎日同級生が代わる代わるお見舞いに来てくれて、友人と一緒にまた外で遊んだり他愛もない話をしたいという思いがリハビリを前向きにさせてくれたのは、間違いありません。
私は母子家庭で育ったのですが、母には女手一つで育ててきた娘のショッキングな姿を見せることになってしまいました。母は私の介護のために仕事を辞める選択をしました。深い愛情を感じるとともに、「必ず復帰して、幸せな姿を見せて安心させるんだ」と決意しました。
いつ死んでもおかしくないほどの傷を負った私は、事故以降の人生をある種の“アナザーストーリー”として捉えています。今、生かされているからこそ、自分の人生に意味があったと思えるよう、表現活動をしていきたいと考えているんです。
◆「身体障害4級、精神障害3級」という等級になって
――今、人生において何かに挑戦することを躊躇っている人も多いと思います。そうした人たちに、もし言葉を掛けることができるとしたら、どうなりますでしょうか?
新井:事故によって、私は身体障害4級、精神障害3級という等級になりました。芸能界はきらびやかで、障害を持った人が活躍する絵を普通はなかなか想像できないかもしれません。芸能界に限らず、あるいは心身に障害を負わずとも、何かに躊躇して諦めている人は多いでしょう。
ただ、私は絶対にくじけません。表現活動を通して、くじけない姿を発信していきたいと思っています。そして、私が自ら一歩踏み出して、「一緒に頑張ってみませんか?」と語りかけられるような、そんな存在になりたいと思っているんです。
――障害者という言葉がでてきましたが、今、見た目ではわりにくい障害を持つ人も大勢いらっしゃると思います。健常者から障害を持つに至ったお立場から、世の中をどうご覧になっていますか?
新井:私もたまに「本当に障害があるの?」と言われることもあり、そのたびに理解されない寂しさを感じることがあります。けれども、世の中全体としては、SNSの普及などもあって見た目でわからない障害を理解する方向へは傾いているように思います。
たとえばヘルプマークなどのように、一部で考案されたものが現在では全国で認知度が高まった例がありますよね。目に見えない障害に対して配慮できる優しい社会になっていくことを望みます。
◆不安を抱く一方で「誓ったこと」
――最後に、今後の展望をお聞かせください。
新井:現在、テレビや舞台でお芝居の仕事を中心にしながら、絵画に挑戦したり、変わったところでは催眠術に挑戦したりしています。それらはすべて事故後に始めたことで、“アナザーストーリー”ならばこんなことに挑戦したいと自分から手を伸ばしたものでもあります。
翻って身体のケアも欠かせず、通院しながら経過観察をしている状態です。たとえば不調を感じたとき、病院で調べてみるとやはり事故の後遺症が原因となっていることも多くあります。先ほどもお話したように頸の血流が1本遮断されているため、もう片方に大きな負荷がかかる可能性が否定できず、不安に思うことももちろんあります。
けれども、芸能の世界で表現者として生きていくと決めた以上は、意識がなくなるそのときまでは常に何かしらを発信していきたいと思っています。それが“生き仏”としての私の誓いでもあります。
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ある日唐突に奪われた日常と、その先の未来。事故によって人生は大きく後退したかにみえた。だが幸不幸は一見してわからない。新井さんは「事故のあと、気づけたことも多い」と微笑む。家族、友人、仕事仲間の温かさ。別段感謝することもなく通り過ぎてしまいそうな、そんな微かな幸せたち。そこに気づけたのは、他ならぬ新井さん自身が壮絶な事故の記憶をくぐり抜けてなお、他者への配慮を忘れなかったからではないか。
新井さんの言葉には濁りがない。多くの人に生き様が届くその日まで、澄み切った気持ちでありのままの世界を描いていく。
<取材・文/黒島暁生>
【新井舞衣】
1995年生まれ。埼玉県出身。俳優・司会・モデル。現在は画家としても活動中。
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Instagram:maimya6
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki