「退職したら…あなたや両親に500万円の損害賠償請求をする」
Xさんが退職を申し出たところ、会社はこのような文言が記載された書面へのサインを求めてきた。
5時間にわたる軟禁状態の中、サインを断固拒否したXさんは退職後、会社に対して慰謝料請求訴訟を提起。その結果、裁判所は「違法だ。会社はXさんに慰謝料15万円を払え」と命じた。(東京地裁 R6.2.28)
以下、事件の詳細だ。
事件の経緯
会社は、労働者派遣事業やコンピュータ・ソフトウェアの開発販売などを行っており、海外出身のXさんはシステムエンジニアとして入社した。
■ 大声での叱責
入社して約1年後。Xさんは、自分が習得していないプログラム言語が必要なプロジェクトに配属された。Xさんはそれを上司に訴えたが、業務の変更は認められなかった。
さらに上司は、ほかの従業員がいる前でXさんに「なぜできない」「給料払ってるのになぜ」「お前どうしてここで仕事をしている」「本当にエンジニアか」と大声で叱責した。
※ マメ知識
ほかの従業員がいる前で誹謗中傷することは、れっきとしたパワハラにあたる(第2類型の精神的攻撃)。詳しくはコチラ。
■ 退職を伝える
Xさんは耐えられなかったのであろう。約2か月後、会社に対して「来月末で退職したい」「退職に向けた次のステップを知りたいので時間を設けてほしい」と伝えた。しかし、会社から引き継ぎに関する具体的な指示がなかったため、自分で引継書を作成して提出した。
■ 5時間の押し問答
冒頭の“軟禁”である。退職日の10日前、従業員2名がXさんを呼び出し、通知書を差し出してサインを求めた。そこには以下の内容が記載されていた。
〈引き継ぎなどの問題があり、Xさんの退職の申し出を認める考えはなく、Xさんが退職またはこれに類する欠勤を強行するなどした場合には、Xさん、Xさんの両親、Xさんの退職騒動に加担した個人および法人に対し500万円の損害賠償を請求する〉
もちろんXさんは拒否したが、従業員2名は何度も「署名するよう」求め、途中からは社長も加勢してきた。
約2時間の圧迫に耐えきれずにXさんは110番通報。「監禁されている」と助けを求め、警察官が駆けつける事態となった。警察官は「弁護士に相談するよう」告げ会社を去ったが、おそらく民事不介入を貫いたのであろう。
その後も会社側はXさんに署名を求め続けた。しかし、Xさんはかたくなに拒否。「帰りたい」と伝えたが帰らせてもらえなかったため、再び110番通報した。
アイル・ビー・バック。再び駆けつけた警察官。そのとりなしによって、Xさんは通知書に英語で「翌週月曜日に弁護士と一緒に会社に訪れる」と記載し、カタカナで署名した。この対応は、弁護士の視点からも素晴らしいと言える。
なお、この時点で、話し合いがスタートしてから約5時間が経過していた。会社はしつこすぎる…。
■ 提訴
退職後、Xさんは裁判を起こした。主張の骨子は「長時間にわたり500万円の損害賠償請求をするとの書面へのサインを強要された。慰謝料を請求する」というものである(実際の裁判ではその他の請求もされているが、今回はこの論点にしぼって解説)。
裁判所の判断
裁判所は「会社の行為は違法。Xさんに対して慰謝料15万円を払え」と命じた。
■ 退職を思いとどまらせることは違法?
上記、なんでもかんでも違法になるわけではない。裁判所は以下のように考えている。
・従業員が「退職したい」と申し出た場合、会社が「思いとどまるよう」説得することは許されるが、社会通念上相当な方法でのみ許されるにすぎない
・しかし! 説得する際に、暴行、強迫、監禁その他精神または身体の自由を不当に拘束する手段を用いるなどした場合には、退職の自由を不当に制限し、人格権を侵害するものとして違法となる
今回の判決では、この判断基準に照らした上で「500万円という損害の内訳や根拠についての説明はなく、不明というほかない」「この通知書は、Xさんが退職した場合には、Xさんや両親に対して合理的な根拠のない高額の損害賠償請求をすることを示し、退職を翻意させるものであり、Xさんの退職の自由を不当に制限するおそれがある不相当な手段」と判断された。
ようは、▼500万円という根拠不明な金額▼5時間の軟禁状態が、違法とされた大きな理由であろう。
※ マメ知識
そもそもの話だが、従業員は自由に退職することができる。
〈民法627条1項:当事者が雇用の期間を定めなかったときは、各当事者は、いつでも解約の申入れをすることができる(以下、略)〉
ほかの裁判例
退職の自由が民法627条1項に明記されているにもかかわらず、今回の事件のように誓約書にサインを求めてくる会社がある。以下、ひとつ事件を紹介する。
■ 広告代理店A社元従業員事件(福岡高裁 H28.10.14)
従業員Yさんが退職を申し出たところ、社長が「福岡で仕事ができないようにしてやる」「天神を歩けないようにしてやる」と言い放った上、誓約書へのサインを求めてきた。
そこにはおおむね「キチンと引き継ぎしなかったら損害賠償請求されても異存はありません」との記載があった。次に示すように、損害の項目がモリモリである。
〈貴社が被った損害及び、給与、募集広告費、募集・採用に費やされた役員の経費、その後の新入社員の研修・人材育成に費やされた経費、退職することにより失った業務の得べかりし利益などの経済的損害について、損害賠償を請求されても異議ありません〉
異議しかないのだが…。
Yさんは社長に押し切られる形でサインしてしまった。しかし、裁判所は会社に鉄槌(てっつい)を下し「Yさんに慰謝料5万円払え」と命じている。
最後に
もし、XさんやYさんが突きつけられたような書面にサインしてしまった場合でも、会社からの損害賠償請求が認められることはないと考えるが(公序良俗違反)、ワル知恵の働く会社は、軟禁状態を回避して「自由意志でサインした」と主張できるよう状況を整えてくるおそれがある。
なにか不利な書面へのサインを求められた場合には、Xさんのように断固拒否することをオススメする。いやしかし、Xさんの対応は素晴らしかった。おつかれさまでした。