「タカイチサナエ」という快楽をもたらす記号だった?
全て「二分法」です。演説もこれに合わせて作る。実際の高市早苗という政治家がどういう政治家なのかは関係ありません。国民は高市早苗という政治家をリーダーとして選んだのではなく、「タカイチサナエ」という快楽をもたらす記号を消費したのだと思います。高市首相は自らを「消費される記号」としての役割を自覚しているからこそ、徹底して国会での論戦から逃げようとしているのでしょう。
これは「マーケティング」の手法です。アメリカでもヨーロッパでも起きています。私が1年半前に政治改革特別委員会の調査団として、ヨーロッパを訪問した時にはすでに、インターネットとともにポピュリズムが進展して、「民主主義よりも権威主義の方が合理的」という時代がくるんじゃないか。そういう恐れをイギリスや英国の政治関係者は持っていました。
選んでいるのは、果たしてその人の意思なのか
今までは自立した個人が、自分の価値観に基づいて判断するという前提に立って民主政治が成り立っていた。メディアもこれを前提に、判断の材料になるような情報を提供してきた。でも、そうじゃなくなった。自分の志向に沿ったコンテンツが、次から次へと、ネット上で、提供されてくる。それに基づいて、だれに投票したらいい、ということも、示される。選んでいるのは、果たしてその人の意思なのか。インターネットの情報に基づいて作られた「個人の意思」を、集めることが、果たして社会にとって何の意味があるのか。
そう考えた時に、「民主主義」そのものを疑わなくてはならないのではないか。それで「国民の意思」が決まるんだったら、何のために選挙をやるのか。別に「くじ引き」であってもいいはずなんです。そう、思い当たった。
私はこれまで、「党より人物」という言葉を掲げて、「一人の人間を見てほしい」と言ってきました。ネット上の「記号化された情報」ではなくて、「なんかやってくれそうだ」とか、「この人は、国のことを考えている」という直感とか、そういうものが大事だと思うからです。