豪華な施設でも埋められなかった、“居場所の違和感”
紀子さんが入居した施設は、決して“悪い施設”ではありませんでした。スタッフは丁寧で、対応も早い。食事も豪華で、医療面の安心感もある。それでも当人に「合う施設・合わない施設」があります。
紀子さんは、もともと社交的なタイプではなく、夫を支えながら家庭中心に生きてきた女性でした。一方、高級老人ホームという特性からでしょうか。施設には現役時代に第一線で活躍してきた人や、社交慣れした人が多くいました。
毎日のように開かれる交流イベントは、施設にとっては「孤立防止」のための配慮でも、紀子さんにはかえって負担になっていたのかもしれません。
さらに、高齢者は環境変化の影響を強く受けます。配偶者との死別だけでも大きな喪失体験です。そこへ長年の自宅を離れ、生活リズムが変わり、人間関係が一変すれば、心身のバランスを崩す人は少なくないでしょう。紀子さんもまた「娘に迷惑をかけたくない」と我慢を重ね、退去を決めたころには軽い抑うつ状態の兆候も見られていたといいます。
美穂さんも早めに動けなかった理由があります。「もう少し様子を見れば慣れてくれるかもしれない」という期待と、高額な一時金を支払ったという事実が、判断を先送りにさせていたのです。
退去を決めたのは入居から4ヵ月後のこと。ここで知っておきたいのが「90日ルール(短期解約特例)」です。
老人福祉法に基づくこの制度では、入居から90日以内に退去すれば、初期償却分は適用されず、実際に入居した日数分の家賃やサービス費用を差し引いた金額が返還されます。しかし4ヵ月(約120日)が経過していたため、初期償却が適用され、返還額は当初より約800万円少なくなったといいます。判断の先送りが、経済的なダメージとして表れた形でした。
「やっぱり家がいちばん」――もう一つの選択肢
その後、美穂さん親子はすぐに次の施設を探すことをしませんでした。何度も話し合った結果、紀子さん自身が「やっぱり家が落ち着く」と話したからです。要支援の認定も受けておらず、日常生活はまだ自分で送れていました。
日本労働組合総連合会が発表した「老後のくらし方に関する意識調査2025」によると、「自身に介護が必要になった場合の住まい選びの意向」について、「現在住んでいる自宅で暮らし続けたい」と回答した人が57.0%で最多となっています。「介護施設に入居したい(15.8%)」という回答を大きく上回る結果です。
介護が必要な状態でさえこれほど多くの人が自宅を望むのですから、まだ自立して動ける紀子さんが、慣れ親しんだ台所や生活環境を恋しく思うのは、むしろ当然の反応だったと言えるでしょう。
美穂さんは「いまの母に必要なのは、施設ではなく安心して暮らせる自宅環境なのかもしれない」と考えるようになります。
生活エリアを1階へ集約し、段差解消・手すり設置・ヒートショック対策を含む自宅リフォームを実施。費用は約1,500万円にのぼりましたが、地域包括支援センターを通じて自治体の補助制度も確認しました。見守りサービスも導入すると、紀子さんは少しずつ表情を取り戻していきました。
「やっぱり、自分の台所がいちばん落ち着くのよ」。その言葉を聞いて、美穂さんは気づいたといいます。"安心できる場所"を決めるのは、設備や価格ではなく、その人自身の「ここがいい」という感覚なのだと。
もちろん、この先ずっと一人暮らしを続けられるとは限りません。「もし介護が必要になったときは、そのときに改めて考えよう」と話し合い、いまは地元の施設を少しずつ見学しているそうです。
ファイナンシャルプランナーとしてひとつ申し上げるなら、「価格の高さ=安心」は、老後の住まい選びでは通用しないことがあります。そして入居後に「合わない」と気づいても、環境を変えること自体が高齢者には大きな負担です。体調を崩すこともあります。
だからこそ、入居前に「その人が、その人らしくいられる場所かどうか」を本人と丁寧に話し合うこと。それが、後悔しない老後の住まい選びの、最初の一歩になるはずです。
三原 由紀
プレ定年専門FP®
