◆「MUSIC AWARDS JAPAN 2026」に落胆の声。その理由は…

「世界に誇る日本の音楽を国を挙げて応援する」といった大義名分を掲げて始まったはずのこの試みですが、蓋を開けてみれば、視聴者の間に広がったのは冷めた脱力感でした。
筆者も配信でその様子を少し覗いてみましたが、視聴者の落胆の理由がわかりました。
もちろん、こうした大規模なエンタメの賞レースにおいて、ある程度の建前や政治的な思惑、いわゆる「書き割り(ハリボテ)」のような側面があるのは織り込み済みです。大人の事情が絡むのは世の常でしょう。しかし、今回決定的に落胆させられたのは、そうした「外面(そとづら)」さえも見栄え良く整える能力を、今の日本のエンタメ界が失ってしまっているという、あまりにも貧しい現実を突きつけられたからです。
賞全体を覆う空々しさは、どこか滑稽ですらありました。もしアメリカのコメディ番組『サタデー・ナイト・ライブ』が、「日本のグラミー賞」をコントで茶化したら、まさにこんな風になるだろう――そう思わせるほどのチグハグさです。特に、出席するアーティストたちが会場に車で乗り付ける演出などは、その最たるものでしょう。
そこに映っていたのは、本物の国際的スターではなく、全員が「世界で人気のあるアーティスト」という役を演じている人たちのように見えてしまいました。つまり、外側の器だけまず整備したのはいいけれども、中身をどうするかの議論が十分に成熟していないように見えてしまったのです。
◆コンセプト、演出、段取り…すべてに“違和感”
その違和感は、授賞式の随所にあらわれていました。この賞が掲げる最大のコンセプトであるはずの「多様性に富んだJ-POPを世界に売り込む」という点についても、大きな疑問が残ります。 受賞やノミネートの顔ぶれを見渡せば、そのほとんどが米津玄師とMrs. GREEN APPLEばかりです。さらに各部門のノミネートを見ても、同じアーティストの別々の楽曲が複数ピックアップされています。多様性を謳う割には、あまりにも顔ぶれが固定化されており、これでは「今の日本の音楽シーンは、世界に提示できる弾(才能)がそんなに不足しているのか?」という、不名誉な疑念すら抱かせかねません。
演出という具体的なディテールに目を向けても、お粗末さが目立ちます。何よりもまず、照明が暗すぎるのです。ステージ上と客席の明度に差がありすぎて、会場全体が一体となって盛り上がっている感覚がまるで伝わってきません。ただ、よくよく見ると客席のアーティストたちは「地蔵」のように静まり返っていたので、この暗さが正解だったのかもしれませんが。
さらに、その暗闇の中でチカチカとしたライティングが多用されていたのも不快感に拍車をかけました。線の強いレーザー光線などが激しく飛び交うステージは、純粋に観客の目に対する負担が大きいものです。これは「エッジの効いた過激な表現」などではなく、単に物量を過剰に投入しただけの、独りよがりでユーザーフレンドリーさを欠いた演出でしかありませんでした。
2年連続で司会を務めた菅田将暉の進行も堅実ではありましたが、機転の効いたユーモアやライブ放送ならではのスリルにも欠けていました。加えて、アーティストとの会話中に演奏が始まったりして、段取りの悪さが浮き彫りになる場面も。日本のエンタメが軽妙な話術を楽しむ余裕を失っているように感じました。

