
長寿化が進む日本。年金を少しでも増やし、ゆとりある老後を目指そうと「繰下げ受給」を検討する人もいるでしょう。しかし、配偶者との死別後も繰下げを続けると、不利益を被るケースがあり、問題になっているのをご存じでしょうか。今回は、夫の死後も70歳まで年金受給を先延ばしにした山田さんの事例とともに、遺族年金と繰下げ受給に潜む「落とし穴」と、2028年から予定されている法改正について、CFPの松田聡子氏が解説します。
「5年も待ったのに……」70歳の元教員が年金事務所で言葉を失った日
「え、これだけなの? 5年間、ずっと待っていたのに」
山田久子さん(仮名・1956年生まれ・現在70歳)は、年金事務所の窓口でそう呟きました。地元の公立小学校で30年間以上教壇に立ち、60歳で退職。夫の誠一さん(仮名・1955年生まれ)は、製造業の会社を勤め上げた元会社員でした。
誠一さんは月額18万円の年金を65歳から受け取っていました。さらに自宅近くの公民館で平日の日中にパートタイムで働いていて、その給与収入が毎月10万円前後。二人には退職金その他の貯蓄が約3,500万円程度ありましたが、誠一さんの年金と働いた収入で毎月の生活費はほぼまかなえていました。
そこで、65歳になった久子さんは月20万円の老齢年金を繰下げることにしたのです。「70歳まで繰下げれば42%増えて、月28万円以上になる」と計算し、誠一さんが完全にリタイアしてからの家計が苦しくならないようにと考えました。
ところが、2023年春、誠一さんは68歳で突然の病に倒れ、帰らぬ人となります。久子さんはこのとき、67歳になったばかりでした。
もともと久子さんの年金額は誠一さんより多かったため、遺族年金は全額支給停止になります。それでも久子さんは「あと3年なら貯蓄を取り崩せば、なんとかやっていけるはず。年金はもらわないで繰下げを続けよう」と、自身の老齢年金を受け取りませんでした。
2026年、70歳を迎えた久子さんは年金事務所へ向かいます。ところが窓口の担当者から告げられたのは、予想外の言葉でした。
「あなたは2023年に遺族年金の受給権が発生しています。その時点で繰下げの増額率は固定されており、16.8%です」
実際に受け取れる年金は月約23万4,000円。期待していた月28万円とは、月5万円近い差がありました。
「もともと遺族年金は1円ももらえないはずなのに、なぜ私の年金が増えないの? だったら、こんなに待っても意味なかったじゃない」
久子さんは、まったく腑に落ちませんでした。
「請求していない」は通用しない——遺族年金受給権と繰下げの落とし穴
久子さんが直面したのは、年金制度の中でも特に見落とされやすいルールです。
日本年金機構の公式サイトにも明記されていますが、「66歳以後の繰下げ待機期間中に、他の公的年金の受給権(遺族年金など)を得た場合には、その時点で増額率が固定され、その後に手続きを遅らせても増額率は増えない」とされています。
つまり、実際に遺族年金を請求するかどうかは関係ありません。受給する権利(受給権)が発生した時点で、自身の繰下げ増額は強制ストップしてしまうのです。
なお前提として、遺族年金は被保険者(夫)が死亡した時点で、妻が年金事務所に請求(裁定請求)したかどうかにかかわらず法律上受給権が発生します(厚生年金保険法 第58条(遺族厚生年金の受給要件)より)。
久子さんの場合、65歳からちょうど24ヵ月が経過した時点で受給権が発生したため、増額率は0.7%×24ヵ月=16.8%で固定されました。その後受給を70歳まで遅らせましたが、増額率はまったく変わっていなかったのです。
また、65歳以上で自身の老齢厚生年金の額が遺族厚生年金を上回る場合、遺族厚生年金は全額支給停止となります。久子さんのケースでは、まさにこれが該当しており、「請求しなくても受給権はある」という状態でした。受給権があるだけで繰下げが止まることを知らなかったがために、その先の待機期間が無駄になってしまったのです。
なお、久子さんのケースでは、70歳での請求時(2026年)から遡って、2023年の遺族年金の受給権発生までが5年以内に収まるため、未受給分はすべて受け取れます(※1)。しかし請求がさらに遅れていれば、5年を超えた分は時効により受け取れなくなっていた可能性もありました。
「夫が亡くなったとき、まず年金事務所に相談していれば……」と久子さんは悔やみます。
配偶者と死別したタイミングで、自分の年金受給にどのような影響が生じるかを確認することが、いかに重要かを示すケースといえるでしょう。
