
老後に直面する問題は、住まい、健康、お金——どれも一人では抱えきれないものばかりです。「子どもがいるから大丈夫」。そう思える安心感は、本物でしょう。ただ、その「大丈夫」を支える側にも、生活があり、仕事があり、自分自身の将来があります。善意からはじまった親子間のお金のやりとりが、じわじわと子世代の人生設計を壊していく——その構造に気づくのは、いつもあとになってからです。※事例の人物名はすべて仮名です。
15年間、積み重なってきたもの
東京都内でシステムエンジニアとして働くマモルさん(44歳)は、3年ぶりに帰省した実家で目を疑いました。リビングには大型の有機ELテレビが鎮座し、洗濯機も最新モデルに入れ替わっています。キッチンはリフォームされ、ソファも新調されていました。
「これ、全部どうしたの?」
父・ミツアキさん(69歳)と母・トシ子さん(69歳)は顔を見合わせ、にこにこしながら答えました。「ちょっとずつ貯めてたのよ。お父さんの退職金もあったしね」。
二人の年金は合わせて月約20万円。ミツアキさんは元会社員として厚生年金を受け取り、トシ子さんは専業主婦として国民年金を受給しています。その年金でどうやって新しい家電が並び、キッチンが生まれ変わったのか。マモルさんの胸に沸き上がったのは違和感ではなく、長年くすぶってきた「怒り」でした。
振り返れば15年前、マモルさんがまだ29歳だったころに最初の「お願い」がありました。「実家の雨漏りを直したいんだけど、少し足りなくて」。金額は10万円でした。「いつか返すから」という両親。親が困っているなら、と父の口座に振り込みました。
その後も理由はさまざまでした。「お父さんの車が壊れた(30万円)」「お母さんが入院して医療費が必要(15万円)」「お盆に親戚が来るから(5万円)」「家電が古くなって(20万円)」……。不定期的に、いつも忘れたころに無心してくるのです。「家族なんだから」という空気が、金銭のやりとりを曖昧にしていました。
15年間でマモルさんが両親に渡した金額は、概算で350万円を超えます。その間、マモルさん自身は独身のまま。結婚を考えた相手もいましたが、「貯蓄がほとんどない」という現実がネックになり、いつしか機会を逸してきました。
帰省2日目の夜、マモルさんは意を決して切り出しました。「お父さん、いままで貸してきたお金のこと、少し話したいんだけど……」。
しかし、返ってきたのはマモルさんを失望させる言葉でした。「なんの話? そんな大げさにいわなくていいだろう。立派に育ててやったんだから、子どもが親を少し助けるのは当たり前のことじゃないか」。トシ子さんもうなずきながら「マモルが困ってたら私たちだって助けるよ」と言い添えました。
その夜、マモルさんはひとりで計算しました。年金月20万円で夫婦が生活すれば、毎月数万円の赤字が出る計算になります。つまり自分が「補填」し続けてきたのは事実であり、両親もある程度わかっていた可能性が高い。それでも「借りた」という認識すらない。
翌朝、マモルさんは荷物をまとめて実家を出ました。両親への連絡は最低限にとどめ、金銭的な支援は今後一切しないと心に決めました。「もう実家には帰らない」——それが、15年越しの結論でした。
「子どもがいるから大丈夫」という安心の裏で
ここで、年金収入の実態を確認します。日本年金機構の2026年度モデル年金によれば、夫が平均的な収入で40年間会社員として勤務し、妻が専業主婦だったモデル世帯の年金額は月額23万7,279円です。一方、マモルさんの両親のように年金が月20万円に届かないケースも珍しくありません。収入が低かったり、勤続年数が短かったりすれば受給額はさらに下がります。
支出はどうでしょうか。総務省「家計調査(2025年平均結果の概要)」(2026年2月公表)によれば、65歳以上の夫婦のみ無職世帯では、可処分所得の約22.2万円に対して消費支出が約26.4万円となっており、毎月約4.2万円が不足する計算になります。年金だけでは生活費を賄いきれない構造が、データからも明らかです。
こうした家計の赤字を、子どもが穴埋めしているケースは少なくありません。それが重なると、子ども自身の生活設計を大きく圧迫します。公益財団法人生命保険文化センターが2025年度に実施した「生活保障に関する調査」によると、自分の老後生活に「不安感あり」と答えた人は83.2%にのぼり、不安の内容として最多だったのは「公的年金だけでは不十分」(79.8%)でした。つまり現役世代のなかには、自分自身の老後資金を準備しながら親世代への経済的な支援も求められるという、「二重の重圧」を背負っている人がいるのが現実です。
さらに深刻なのは、親子間のお金のやりとりが法的にも感情的にも曖昧になりやすい点です。「家族だから借用書は不要」といった慣習がのちの金銭トラブルを不可視化させています。援助なのか貸し付けなのかの区別もないまま、マモルさんのように350万円という大金が「なかったこと」にされてしまうリスクは、多くの家庭に潜んでいます。
