【小林美香さんインタビュー】変わりつつあるもの、変わりきれない部分。広告から見えてくるジェンダー観、ルッキズムの現在地


話を聞いた人:小林美香さん 写真研究家

大阪大学文学部卒業、京都工芸繊維大学大学院修了(博士)。国内外で写真やジェンダー表象に関するレクチャー、ワークショップ、研修講座、展覧会を企画、雑誌やウェブメディアに寄稿するなど執筆や翻訳に取り組む。東京造形大学、九州大学非常勤講師。SNS等で発信していた日々の広告分析をまとめた近著『ジェンダー目線の広告観察』が話題を呼び、寄稿、インタビューはじめ、メディア出演多数。
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聞き手:綿貫大介

編集者・ライター。ファッション、カルチャー、ライフスタイル誌の編集部を経て独立。現在はエンタメを軸に編集・執筆するほか、ZINEも精力的に制作中。絶滅危惧種のテレビっ子。
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“こうあるべき”から今一歩抜けきれない、広告表現の多様性

──小林さんはなぜ広告に興味を持たれたのでしょうか。

私は美術系の大学で講座を持ち、主に作品と呼ばれるものの分析、解説、評論を行ってきました。美術作品はたいてい、関心がある人が美術館やギャラリーに行って鑑賞するものですよね。

広告はそれとは対極的なものだと思っています。見たいと思ってなくても、目に入ってくる。ここ数年は特に、美容脱毛の広告の圧倒的な量と種類の多さが気になり、観察を続けていました。

──脱毛広告からはどのようなジェンダー表現が見て取れますか?

脱毛は身体に直接結びつくサービスですよね。抜いたり切ったりした体毛自体は単なる物質。別にそこにジェンダーはありません。でも、たとえば頭髪における髪型などは個人のアイデンティティに大きく関わってきますよね。毛もその人の一部でもあるという観点でみると、ジェンダーが関わってきます。

そして(主に女性の)脱毛という行為に関していえば、自分の意志以上に、周りからの強制力が強いように感じます。たとえば、電車の車内で脱毛広告がどういう場所にあるかというと、転職、進学塾、学校関係の広告の近くだったりする。「ここに行くのが正しい」という文脈の中に、美容も入ってきているんです。

自分の身体に対する愛着や自分を愛せるようになることが利用のモチベーションの一つだとは思うのですが、それ以上に脱毛は周りから見られても気にされないようにするとか、一般的な美の規範に従うためにするものになってきている。むしろ脱毛しなくてはダメだと思わせるような、一種ハラスメントに近いものを感じます。このように日本の広告は、規範の押し付け、支配的な価値観の刷り込みが非常に強いものになっていると思います。

──ほかに気になる広告はありましたか?

近年は、国連のSDGs(持続可能な開発目標)の採択や性的少数者をとりまく社会を反映して、ジェンダーや人種、体形をめぐって、画一的な美しさだけを推奨するのではなく、多様性をたたえる機運が高まってきました。

車内吊りの広告にも、下にSDGsについて書かれていたりする。しかし、それも内情はどうなのだろうと疑わしいものも多い気がしています。表向き多様性を謳っているけれど、ポーズだけに感じるものも多いんです。

たとえば、プラスサイズモデル(平均より大きな身体のモデル)のように体形を個性ととらえる「ボディポジティブ」の流れのなか、タレント渡辺直美さんを起用した広告も多くありました。明るくて個性的でとても魅力のある方なので、表向きにはよく見えますよね。

しかしこれらの広告のデザインやコピーを観察していくと、結局は容姿端麗な見た目の美しさに価値を与えるルッキズムのルールに世の中が基づいていることには変わりなく、ジェンダーや体形にまつわる価値観がオプションのように加えられただけであることがわかります。結局は美容産業がつくり出す表象は、ルッキズムに加担していることが見て取れます。

──今まで白人のスレンダーなモデルが美の象徴のように扱われてきたことを思えば、いろいろな体型の方が起用されることは多様性の観点からは良さそうに思います。しかし、企業自体がその変化を「流行り」のように扱っている可能性もあり、本質はあまり変わっていないということですね。だとすると、まだ注力して広告を観察する必要がありそうです。

そうですね。たしかに新たな可能性が可視化されている点のポジティブさは評価できることだと思います。ただその形式的な流れはもう見えてきたので、そろそろ次のメッセージを提案する広告が現れてもいい頃だと思っています。

自分がどう感じるか。“ただ受け入れる”、“ただ欲する”をやめてみる

──そもそも広告は一方的に押し付けられて気持ちがいいものではありません。その点についてはどのように感じますか?

これはジェネレーションの問題もあると思います。「新聞、雑誌、ラジオ、テレビ」など四大マスメディアで育ってきた世代だと、テレビCMやCMソングに何かしら愛着を持たれていたり、安心感があるという方も案外多いんです。

そのころはまだ「平和」だったのかもしれないですが、今や広告業界は7兆円産業。その多くはウェブに軸足を移しているわけですが、こちらは比較的安価に広告を出せることもあり、その量は限りなく増え続けています。

しかもお金をかけてしっかりと作られる四大メディアの広告とは違い、ウェブ広告はあまり精査されていないような粗悪な内容のものも多い。現代の広告の量と質を考えると、広告が生き物に対してかけるストレスの負担は、ちょっと考えられないぐらいになっています。

特にエロマンガ広告と呼ばれるものはその代表例だと思います。エロティックなものを見る欲望を否定するつもりはないですが、別に見たいと思ってない時に視界に入ってくるって、それはハラスメントじゃないですか。

──この現状は日本独特の側面があるのでしょうか。

同じスマホを持って外国に行ったら、途端にそういう広告がなくなったという話はよく聞きますが、それくらい日本はおかしいのだと思います。日本国内にいると他国の状況を知らない分、ウェブは無料でみられるのだから、その代償として不快に感じる広告が出てきてもしょうがないと私たちは思ってしまっている部分もあると思います。

メディアや情報のインフラは広告に支えられているとまで思っている人もいるかもしれない。でも、そんなことはないと思います。不快なものを受け入れる必要なんて本来ないんです。嫌なものは嫌だと思う権利はあるんですから。

──脱毛広告のような公共空間の広告が人々に与える影響も大きいですが、接触回数でいえばオンラインの広告もなかなかのものですね。

今はもう家族で同じ空間にいたとしても、端末によって見ているものが違う。そうなると、受けているハラスメントは、人それぞれに違うわけです。 美意識を押し付けられている人、性別役割を押し付けられている人、若さの価値を押し付けられている人、性的なハラスメントを受けている人…本当にさまざまです。だから広告の問題を議論しようとしても、共通の理解を掴むことが難しくなっています。

──広告が何かしらのメッセージを押し付けてくる一方で、私たちがそれを欲望してしまっている側面もあると思っています。私たちが抱いてしまう欲望と、資本主義社会のイデオロギーを助長している広告はむしろ、共犯関係にあるのではないかとも感じています。

そうですね。この点に関してダブルスタンダードを抱えているのはたしかです。その上で、私は自分たちの欲望に対して「これは本当に欲しいものなのか」「消費する必要があるのか」ということをしっかりと自問する必要があると思っています。

私たちはこれまで、受動的でいることや我慢強く受け入れることを教育されてきました。一方で、私という主体は何かという内側の掘り下げをする経験は乏しい。考え方を変えていくのは大変なことだとは思いますが、それを訓練してやっていく必要はあると思います。

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