東日本大震災13年 被災のダメージを減らすためにできること 福島の語り部が語る教訓


写真説明:体験を語り合う、津波を生き延びた五十嵐さん(左)と避難所を何度も移った井島さん(右)

3月11日は、東日本大震災が起きてから13年。その後も、国内では地震や豪雨などの災害が相次ぎ、2024年元日には能登半島で起きた最大震度7の地震で多くの人が犠牲になりました。少しでも被害を減らすために、私たちはどうしたらよいのでしょうか。東日本大震災の際、津波に流されながらも生き延びて語り部活動に取り組む五十嵐ひで子さん(76歳)と、避難所を転々とした経験を持つ井島順子さん(61歳)にお話を聞きました。

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相馬で民宿を経営していた五十嵐ひで子(いがらし・ひでこ)さん

私の実家は、福島県相馬市の海沿いで、夏の海水浴シーズンに海の家をやっていました。私は結婚後、夫の転勤先に一緒に行っていましたが、母が体調を崩したのをきっかけに相馬市に戻り、自分で民宿を経営するようになりました。夏は海水浴客、それ以外は長期滞在の人が対象でした。

海鳴りの後、立っていられないほどの強い揺れ

2011年3月11日はとても寒い日でした。その時は、仕事で長期滞在しているお客さんが18人いて、私はお昼を取った後、近所のスーパーに夕食の買い物に行って帰り、こたつでくつろいでいました。ものすごく大きな海鳴りが聞こえ、少し間を置いて、「ガターン」と音がして揺れ始めました。次に電気が「バターン」と切れて、テレビも何も聞こえなくなりました。立っていられないほどの激しい揺れが長く続き、玄関先の大きな柱のところまで這っていってしがみつきました。

揺れが収まった後、近所のみんながワーッと外に出て来て、「地震すごかったな」「食器なんかいままで落ちたことねえのにガッタガタだど」「片付けないかん」などと言い合いました。

堤防に波が引けたか見に行く

「地震の時は波が引く」といわれていたため、堤防に人が集まってきて、「波引けたか~」「引けねえな」などと言っていて、「波が引かないということは、津波もたいして来ない」という感覚でした。

「ものすごい津波来てっから、早く逃げろ」

「浜通りに大津波来ない」と思い込んでいた

そうこうしているうちに、消防団の人たちが来て、「早く逃げろ! いま岩手県と宮城県でものすごい津波来てっから、早く逃げろ」と必死に言ってきた。でも、私たちは何も情報がないし、2日前の、宮城で震度5弱を記録した地震でも、相馬港の津波は20㎝ぐらいで何ともなかったので、「わかったわかった、みんなにも教えてやれ」と軽く答えていました。みんな、「浜通りに大きな津波は来ない」「ずーっと水が引けたとしても、そよそよと戻ってくるだけ」と思っていたんです。


写真説明:東日本大震災の2日前の地震に伴う津波が到達した時の気仙沼港。緊迫した雰囲気はなかった(2011年3月9日、宮城県気仙沼市で)

その時うちには私と夫、父と叔父がいて、父は、「家がこんなになっているんだから、お墓が心配だ。ちょっと見てくる」と言って、近くの山あいにあるお墓を見に出かけました。私たちはそのまま家にいたんだけど、ふと、空を見ると、すごく嫌な色で、なんだか不穏な気持ちになりました。


写真説明:津波に飲まれた時のことを思い出して語る五十嵐さん

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