東日本大震災13年 被災のダメージを減らすためにできること 福島の語り部が語る教訓

逃げる途中、夫と叔父と津波に飲まれる

近所の人たちが「逃げっか」と言い始めて、「あんたらも逃げろよ」と言われました。それで、足が悪かった叔父の手を引いて外に出たら、もう波が来ていたんです。夫に「これ何だ?」と聞いたら、「津波だ」と。慌てて自分の家と隣の家の間の道路に出て、ふと、自分の家を振り返ったら、窓ガラスを津波がスポーン、スポーンと打ち破っているのが見えて、私たち3人もフワーっと持ち上げられました。私と夫は隣の家の松の木になんとかつかまり、叔父は私と腕をつかみ合う状態で、水を飲んであっぷあっぷしながら浮いていたんです。そうこうするうちに叔父が手をぽろっと離してしまい、夫もいつの間にか流されていました。「ひでこぉー、ひでこぉー」と私の名を呼びながらどんどん遠ざかって行ってしまった。その時の夫の声が忘れられません。

「こんな格好で死ぬのは嫌だ」 とにかく上へ

自分も、大きな波が来た時に流されて、気がつくとかけていたメガネがないし、着ていた服がほとんど脱げて下着だけになっていて。「こんな無様な格好で死なないといけないんだべか」という気持ちがわいてきて、とにかく上に上がろうと思ってもがきました。何かにつかまろうと思って、流れてきた木につかまったのは覚えていますが、そこから意識が遠のきました。

「寒い」と思って目を開けたら、何もない所で、体ががれきに埋まって顔だけ出ていました。がれきから抜け出して、「助けてー!」と叫んでいたところ、無事だった父に発見されました。夫と叔父は助かりませんでした。


写真説明:田んぼ一面が海水につかった相馬市大迎地区。奥に見える木々は防風林で、その向こうが海(2011年3月12日撮影)

心に残る「なんで逃げなかったの」という問いかけ

公立病院に入院したところ、肋骨にひびが入っていたものの、外傷はありませんでした。ただ、父は医師から、「あと5分、見つけるのが遅かったら、低体温症で命がなかったよ。早く見つけてよかった」と言われたそうです。

病院に来た娘から、「すごい地震だったのに、なんで逃げなかったの。お母さんなら逃げていると思った」と言われました。「本当にそうだよな」と思い、言葉がありませんでした。もともと私は、先頭に立って行動するタイプ。なぜあの時、「父ちゃん早く逃げっぺ」という言葉が出なかったんだろう?と思いました。もし、私が「逃げっぺ」と言っていたら、みんな一斉に山のほうに逃げて、助かったかもしれないのに…と思い、自分を責めました。13年たった今も、「なんで逃げなかったの」という言葉は心に残っています。

「災害起きるかも」頭の片隅で意識してほしい

「自分の命は自分で守る」と伝えるのが生き残った自分の責任だと思い、2012年の春から語り部をしています。みなさんに伝えたいのは、「もしかしたら災害が起きるかもしれない」と、常に頭の片隅で意識しておいてほしいということ。そうすれば、いざという時、逃げるかどうかの判断がすぐにできるはずです。

リアルな語り、実際の被災時に役立つ

数え切れないほど、語り部として話してきました。「テレビなどで見たりしたことがあったけれど、やっぱりここに来て映像を見て、語り部さんの話を聞くと、心に響きます」と言ってもらえるとうれしいです。熊本の高校生や、能登の高校生も、偶然、それぞれの地域で起きた地震の前に私の話を聞きに来ていて、先生から「語り部さんの話を聞いていたおかげで、子どもたちが自ら動いてくれたので助かりました」とお礼を言われたこともあります。


写真説明:福島県内の小学生に震災時の経験を語る五十嵐さん(相馬市観光協会提供)

能登半島地震の被災地の様子を見ると、東日本大震災の当時を思い出します。被害に遭った方は、今は本当につらいと思います。ただ、あれだけ破壊された東北も、13年たってずいぶん復興しました。能登もきっと復興します。明日は今日より良くなると信じて、前向きに過ごしてもらえたらと思っています。

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