東日本大震災13年 被災のダメージを減らすためにできること 福島の語り部が語る教訓

避難所を転々とした井島順子(いじま・じゅんこ)さん

震災前は、南相馬市の小高地区に住んでいました。自宅のある場所は、福島第一原子力発電所の事故の影響で立ち入りが制限され、避難所を転々としました。その経験から感じたことをお伝えしたいと思います。

第一原発から浪江の会社に戻る途中、地震に遭遇

私は当時、浪江町の旅行代理店に勤めていて、大熊町にあった第一原発に、出張の新幹線チケットなどを届けて、会社に戻る途中に地震に遭いました。大きな揺れで道が波打ち、「やばいやばい」と叫びながら浪江に戻りました。会社に着いてから来た2回目の地震はもっと大きくて、事務所でつけていたストーブが、右から左にザーっと流れて行きました。自分のデスクの下に潜り込んだ時、席の後ろにあったパンフレットスタンドが、私の座っていた場所に倒れ込んできました。

国道6号に入れず、旧国道を通る…津波の被害免れた

小学生だった2人の子どもを迎えに行かなきゃ、と思って車で国道6号線に入ろうとしたら、渋滞していてとても入れない。仕方なく1本裏の旧国道を走りました。後に、浪江と小高の辺りは、6号線まで津波が来たと聞きました。もしあのまま国道に入っていたら、車ごと津波に流されていたと思います。


写真説明:福島県南相馬市原町区で、泥にのみ込まれた家屋や車(2011年3月12日撮影)

繰り返される「避難所を替えます」

息子と娘がいた小高小学校に着いて、子どもたちを連れて帰ろうとしたら、津波警報が出ていると知らされ、そのまま高台の高校に避難しました。震災翌日の夕方に、はっきりした理由も聞かされずに「避難所を替えます」と言われて移動し、さらにそこから、自分の母校だった旧相馬女子高にできた避難所に移りました。津波があったことは12日に知りましたが、原発が爆発したことは、避難所にテレビが入った17日か18日まで知りませんでした。

学校に行けない子どもたちのための「寺子屋」

避難所の子どもたちは、震災発生後は全く登校できず、“毎日が春休み”状態。子どもと長時間一緒にいることに慣れていない大人や高齢者たちが疲れ果てていたこともあり、「寺子屋」を開くことにしました。教室を片付けて机とイスを並べ、学校の先生をしていた大学時代の友だちから不要になった教科書やドリルをもらい、避難所にいる学校の先生やボランティアの人たちに教えてもらうことを3月末から始めました。

「日常生活を取り戻す」ことが大事

手持ちぶさたにしていた大人やお年寄りには、掃除や配膳、裁縫係、備品の整備などの役割を担ってもらいました。するとみんなが生き生きと動くようになりました。「日常生活を取り戻す」って本当に大事なんだな、と実感しました。

被災者を支えるコミュニティー

そして、コミュニティーの重要性も強く感じました。女子高の避難所には1か月滞在しましたが、寺子屋や仕事の分担などを通じてコミュニティーができていきました。みんなで買い出しに行って鍋を作ったりもして、今振り返ると楽しかったなあと思います。

相馬の学校に子どもを通わせるつもりで手続きをしていましたが、相馬女子高の避難所も耐震不足を理由に閉鎖されることになってしまいました。移った先の避難所でまた一から関係性を作らなければならず、しんどかったですね。

ストレス抱える子どものための「フリースペース」

大人の私にとっても、避難所を転々とするのはストレスでしたが、子どもたちの中でも、大人ばかりの避難所や仮設にいて、だんだんしゃべらなくなったり、殻に閉じこもったりする子がいました。せめて長期休暇中だけでも、同世代の子どもたちと心置きなく遊べてしゃべれて、勉強もできる場所がいると考え、2012年の夏、いろいろな人の協力を得て「フリースペース」を作り、大学生ボランティアと一緒に運営していました。


写真説明:子どもたちが同世代としゃべったり遊んだり勉強したりできる「フリースペース」。勉強中の様子(井島さん提供)

避難所のコミュニティー壊さないで

能登半島地震でも、避難所を何度も移らなければならない人たちがいると思います。できれば、自治体には、出来上がったコミュニティーをなるべく壊さないようにお願いしたいです。また、避難者も、輪に入れない人に早く気づいて、「こっちに来たら」と声をかけてもらえたらいいなと思います。

大震災当時、避難所の関係で改善してほしかったことは、避難所にいる人だけでなく、自主避難した人にも、平等に物資と情報を提供してほしいということです。避難所に行きたくても、介護・看護が必要な家族がいる、ペットがいるなどの理由で避難所に行けない人もいます。うちも、子どものために借り上げ住宅を選んだ時は、いつ、何が配られるといった情報が全く入りませんでした。避難所にいる人から情報を得て、物資をもらいに行くと、「避難所以外の人にはあげられません」と言われたこともありました。今はそういうことは減っていると思いますが、情報と支援物資は、なるべく多くの人に平等にいきわたるようにしてほしいと思います。

多くの人に助けられた震災後

振り返ってみると、震災直後もその後も、多くの人に助けられました。

震災の翌日、旅行中のお客さんに連絡するため避難所から浪江町の会社に行って、ガソリンがほとんどなくなり困りましたが、ガソリンスタンドがほぼ閉まっている中、唯一、知り合いがやっていたスタンドだけは開けていて、無料で10リットル入れてくれました。浪江で被災したスーパーは、「レジが使えないからお金はいいよ」と、買いに来た人に残った商品を全部提供していました。多くの児童がよそに避難して、子どもがほとんどいなくなってしまった小高小学校で、2011年3月のPTA新聞を作ろうと提案した時は、残った人が会費を出すのに賛同してくれたほか、製紙会社が寄付をしてくれました。避難所での寺子屋では、取材に来た新聞社やテレビ局の記者も先生をやってくれたし、「フリースペース」では大学生ボランティアが熱心に活動してくれました。地域の人たちをはじめ、いろいろな人とのつながりや助けがあったおかげで、大変なことを乗り越えられたと思います。

やっぱり大事な水とトイレ

日本はどこにいても災害に遭う可能性があります。福島はもともと地震が多かったので、水をためておくとか、懐中電灯とかラジオとかを備えることなどは実行していました。東日本の際、私たちがいた所には比較的早く支援が届いたため、それほど困りませんでしたが、水とトイレはやっぱり大事だと思います。下着をはじめとする衣類も、替えがないと洗濯ができないので準備しておいたほうがいいし、就寝中に地震が起きた場合に備えて、靴やスリッパを寝室に用意しておくのも必要だと思います。

平常時から地域の中でつながりを

平時は地域とのつながりがなくても平気ですが、非常時はそのつながりがとても大事になります。何もない時から、地域の中でつながりを持つように心がけていただきたいと思います。


写真説明:震災後に出会って親しくなった五十嵐さんと井島さん。「お互いに助け合い、思いやれる仲間がいるのが本当にありがたい」と語った(2024年2月15日、相馬市「千客万来館」で)

<執筆者プロフィル>

針原陽子

「防災ニッポン」編集長 読売新聞 専門委員

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