因縁のライバル?2人の天才ベルニーニとボッロミーニの芸術を解説

イタリア・バロック2人の天才:ベルニーニとボッロミーニ


ベルニーニとボッロミーニ

イタリアのバロック時代を代表する芸術家であるベルニーニ(1598-1680年)とボッロミーニ(1599-1667年)は1つしか歳の変わらない同世代としてこの世に生を受けました。

ベルニーニは子供のころから、同じく彫刻家である父の仕事の都合で芸術家として恵まれた環境に身をおいてきました。幼くしてローマのボルゲーゼ枢機卿に才能を認められ、彫刻家として確実なキャリアを作り上げていきます。

「ベルニーニは ローマ のために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」―――この有名な格言からわかるほど、ベルニーニがローマにもたらした功績は大きく、また当時のローマの芸術的な土壌には彼の才能を最大限に活かせる豊かさがありました。

一方ボッロミーニも、建築業を営んでいた父の影響を受け、若いころから石工としての修行を積みます。ベルニーニほどに恵まれていたわけではないものの、比較的早年から才能を認められていました。

北部出身のボッロミーニは、20歳前後で故郷を離れ、巡礼者のような方法でローマにたどり着いたと言われます。こうして、すでに芸術家として名声を手にしていた1つ年上のベルニーニとローマで出会うことになるのです。

2人は1620年代のローマのサン・ピエトロ大聖堂の再建事業で、ともに仕事をしていました。ボッロミーニはベルニーニの指示のもとでサン・ピエトロのバルダッキーノ*完成を手伝いますが、ここで2人の天才はそりが合わずに仲たがいを起こしたと言われています。

*バルダッキーノ:主祭壇に置かれる祠のような小さな建築物。サン・ピエトロ大聖堂のバルダッキーノはベルニーニの代表作の1つであり、ローマの美術史のコンテクストでは伝統的に、一般名詞としてだけではなく「ベルニーニのバルダッキーノ」の意味で固有名詞としても用いられます。

活動的なベルニーニと内省的なボッロミーニ


Baldacchino di San Pietro, G L BerniniPublic domain, via Wikimedia Commons

サン・ピエトロ大聖堂の再建事業におけるベルニーニとボッロミーニの仲たがいは、彼らの性格があまりに異なっていたためかもしれません。ベルニーニは活動的で外交的な性格だったといわれ、ボッロミーニは反対に内省的で思慮深い性格だったといわれています。

ベルニーニはボルゲーゼ家の後見を中心に、ローマで幅広いパトロンを獲得して活躍の場を広げました。とくに文化・芸術庇護者であった教皇ウルバヌス8世はベルニーニに多くの作品を依頼しており、サン・ピエトロ大聖堂の再建はその仕事の1つです。

ボッロミーニはベルニーニほど多くのパトロンがいたわけではありませんでしたが、それでもウルバヌス8世のあとの教皇、インノケンティウス10世は、ボッロミーニの作品を高く評価しました。ローマの四大教会の1つであるサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の再建は、インノケンティウス10世の依頼によりボッロミーニが担当しました。

続くアレクサンデル7世は再びベルニーニ贔屓の教皇で、ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ教会内のキージ家礼拝堂内の彫刻『ダニエルとハバククと天使』などをベルニーニに依頼しています。

2人の天才ベルニーニとボッロミーニは、ローマにおける最大のパトロンである歴代の教皇からの仕事を請け負うことで多くの作品を残してきました。このような状況下において、2人が「ライバル」として仕事を取り合うような関係性になっていったことは、想像に難くないでしょう。

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