軽すぎる「お願い」
「よし、これでOKだね」
私がそう言うと、藤川さんは満足そうに伸びをした。
「ふー、疲れた。真帆ちゃん、ちょっといい?」
「うん?」
藤川さんは周りを軽く見回した。
ちょうど他の保護者も子どもたちも帰り始めていて、校門前はさっきより静かになっている。
そして、少し声を落として言った。
「ちょっと聞きたいことがあってさ」
「聞きたいこと?」
「うん」
藤川さんはスマホを取り出した。
画面を何回か操作してから、私の方に向ける。
そこには、家の図面のようなものが表示されていた。
「実はさ、うち今リフォーム考えてるんだよね」
「あ、そうなんだ」
「中古の家買ったじゃん?去年」
「うん、言ってたね」
「それでキッチンとか、ちょっと変えたいな〜って」
スマホの画面を指で拡大しながら、藤川さんは説明を続ける。
「でもさ、業者の人の言ってることって、正直よく分かんなくて」
「うん……」
なんとなく嫌な予感がした。
胸の奥に、小さな違和感が浮かぶ。
そして──藤川さんは、ごく自然な顔で言った。
「真帆ちゃんの旦那さん、建築士でしょ?」
「……うん」
「この図面、ちょっと見てもらえない?」
私は一瞬、言葉を失った。
「え?」
「ほら、プロの意見って聞いてみたいじゃん?」
藤川さんは軽い調子で続ける。
「ここさ、壁抜けるのかなーとか、動線どう思う?とか」
画面を指差しながら、次々に話し始めた。
「業者の人は大丈夫って言ってるんだけど、本当かなって」
私はスマホの画面を見つめたまま、固まってしまう。
……ちょっと待って。
それってつまり、恒一に仕事の相談をしてほしいってこと?
それも、こんな気軽な感じで?
「あ、もちろん今じゃなくていいよ!」
藤川さんは笑いながら言った。
「家でサラッと見てもらうだけでいいから」
サラッと。
その言葉が、妙に引っかかった。
図面を見るって、そんな簡単なことじゃないはずだ。
私は建築のことは詳しくないけれど、それでも分かる。
恒一は仕事として、いつも真剣に図面に向き合っている。
それを──
“ちょっと見てほしい”
そんな軽い言葉で頼んでいいものなのだろうか。
「どうかな?」
藤川さんが期待するような目でこちらを見る。
断る理由を探そうとしても、言葉が出てこない。
「えっと……」
私は曖昧に笑うしかなかった。
胸の奥に、もやっとしたものが広がっていく。
このお願い。
簡単に「いいよ」と言っていいものなの?
でも断ったら、関係が気まずくなるかもしれない。
PTAも一緒だし、子ども同士だって仲がいい。
「旦那さん優しそうだったし、大丈夫だよね?」
藤川さんは悪びれる様子もなく言った。
私は小さく息を飲んだ。
──どう答えればいいんだろう。
困惑したまま、私はスマホの図面を見つめていた。
あとがき:その「ちょっと」が招く違和感
何気ないお願いの中に、ふとした違和感を覚えることはありませんか。藤川は悪気なく、軽い気持ちで頼んでいるようにも見えます。しかし「プロに対する依頼」である以上、本来は対価や配慮が必要なはず。真帆が感じた“もやもや”は、決して気のせいではありません。人との距離が近いからこそ曖昧になりがちな境界線。この小さな違和感が、これからどのように広がっていくのか──次回に続きます。
※このお話は、ママリに寄せられた体験談をもとに編集部が再構成しています。個人が特定されないよう、内容や表現を変更・編集しています。
記事作成: tenkyu_writing
(配信元: ママリ)

