「ナイジェリアから見ていると、日本語は単なる言語というよりも、一種の思考プロトコルのように感じられます」――。ナイジェリア在住とみられるXユーザーが26日に投稿した日本語への深い考察が、大きな反響を呼んでいる。「ひらがなは音を運ぶ流れる骨格」「カタカナは外来要素を取り込む翻訳ツール」「漢字は意味を一瞬で圧縮するデータパケット」という分析に、日本人ユーザーから「目から鱗」「自国語の面白さを改めて教わった」という声が集まった。
「圧縮語と表音言語のハイブリッド」
投稿では、ひらがな・カタカナ・漢字の三層構造が「特定の役割を持った設計構造のように見える」と表現したうえで、「日本語は単に『読む』ものではなく、『理解しながら展開(解凍)する』言語なのではないか」と問いかけた。「もし漢字だけ、あるいはひらがなだけに統一されていたら、日本語における『思考のスピード』は変わっていたと思いますか?」「学習者にとって本当に難しい部分はどこにあるのでしょうか?」といった具体的な質問も添えられていた。
この問いに対し、日本語の歴史的な成り立ちを丁寧に解説する声が広まった。
「とても素晴らしい考察だと思います。日本語は表意文字と表音文字の両方を持つ珍しい言語です。まず、古代日本には文字が無かったけど話し言葉はあった。そこに中国から漢字が入ってきて話し言葉に漢字を当てて表音文字として漢字が使われたのが『万葉仮名』。これを表音文字として簡単にした文字が平仮名とカタカナです。一方で表意文字としての漢字も使用され続けたので平仮名とカタカナが発生した時点で層構造は生まれました。これは千年以上昔の事です」
「漢字は古代中国から輸入したものですが、漢字にはたくさんの意味が凝縮されています。もちろん輸入した当時は日本にはない意味、事柄などがあったでしょう。なので意味を圧縮したときには漢字を使い、そして古来からの日本にあるものを音として表現するにはひらがな、またはカタカナを使ってるのじゃないかなと思います。圧縮語と表音言語のハイブリッドのような気がしますね。ですから、そこが1番外国の方は混乱するんじゃないでしょうか何か頭の中で再変換を行わなければいけないような感じがしますね」
「思考のスピードより解像度が変わる」
「もし漢字だけ、あるいはひらがなだけに統一されていたら」という仮想実験への問いかけに対しては、こうした回答も寄せられた。
「もし漢字がなければ、視覚的な情報密度が下がり、文章を読むスピード(=情報のデコード速度)は確実に落ちていたでしょうね。ナイジェリアからの非常にシャープな分析に、日本人として改めて自国語の面白さを教えられた気分です」
また、
「情報圧縮率だけなら文字なら中国語、音ならベトナム語がトップクラスなんですよね。ただ日本語は、カタカナ、ひらがなが使えることで『あからさまな言外情報』と言った遊びの幅が極端に広い印象があります。あえてひらがなで書くことで幼い印象を与えたり、カタカナで書くことで違和感を与えたり」
と、日本語の「遊びの幅」に着目した考察も上がった。
「江戸時代の識字率が高圧縮文字体系を発達させた」
もちろん、歴史的背景からの考察もあり、
「侍の時代(江戸時代)に既に流行小説が流行り、商店の情報チラシや、為替市場や手形もあるという識字率の高さが、高圧縮文字体系を発達させたのだと思います。世界で年月日不明の昔の天体イベントが日本の農民の日記で判明したことがあります。桜の開花記録は1200年分あります」
「日本語は書き方や使用方法で『読み解く』言語です。これは外国の言葉だから排除するのではなく合体させます。『ナウい』これは英語の『Now』と日本語形式の語尾に『い』を付け形容詞にした言葉」
という指摘のように、外来語を吸収し変容させてきた日本語の柔軟性を指摘する声も相次いだ。
投稿者はナイジェリアのヨルバ族と名乗り、「ナイジェリアにはハウサ族やイボ族など、多くの民族がいます」と紹介している。ヨルバ族はアフリカで最も多い民族のひとつで、ナイジェリア南西部を中心に、トーゴやベナンにも居住している。ナイジェリアの公用語は英語で、この人物はヨルバ語と英語を話しているという。また、ナイジェリア国内では一般的に「公式の場では → 英語 友達と → ピジン英語 家庭では → ヨルバ語 / イボ語 / ハウサ語」と場面や相手によって使い分けされていると明かしている。
「意味は文章の中にあるのか、読む側が作るのか」
さらに投稿者は28日、日本語における「意味の成立」をめぐる新たな考察を投稿した。自身が普段使う言語の英語との比較で、「英語のように順番で意味を積み上げていくというより、全体の意味が少し遅れて立ち上がってくるように感じる」という体験から出発し、「日本語は『読む言語』というよりも、読んだあとに意味が成立する言語のように感じられます」と表現した。同じ文章でも読む人の経験や背景によって解釈が変わることへの気づきから、「意味とは、文章そのものの中に存在するものなのでしょうか?それとも、読む側によって作られるものなのでしょうか?」という問いへと展開した。
さらに「日本語は思考そのものにおいて、曖昧さをより受け入れる傾向があるのでしょうか?それとも単に、曖昧さを無理に確定させないだけなのでしょうか?」「もし曖昧さが自然なものであるとすれば、それは真理の捉え方にも影響するのでしょうか」と踏み込んだ。最後には「日本語はあなたにとって『情報』に近いものですか?それとも『感覚』に近いものですか?」「日本語はあなたの思考を形作るものなのでしょうか?それとも、すでにある思考を表現しているだけなのでしょうか?」と問いかけ、言語が思考に先行するのか後行するのかという根本的な問いで締めくくった。「情報圧縮」に始まった考察は、意味論・認識論の領域へと広がりを見せている。
この問いを受けて、
「私の意見では、日本語は『感覚』を伝えていると思います。『大丈夫』という言葉が、色んなシチュエーションによって、意味がイエス、ノー、OKなどになるのがいい例かなと思います」
「私の考えですけど。英語の文法は重要な事を先に言って、後から細かい情報を付け加えるんです。これって日本語だと目的地を先に聞きたい時は良いけど、細かい情報の方を知りたい事が多いから、報告が下手な人の話し方っぽくて慣れないです」
「日本語を読むのは、まるで『うまみ』のようなものです。すべてを味わってから判断しなければなりません。外国語を話すとき、最も上手な話者はその言語で考えていて、それが体験的なものにします」
といったさまざまな見解が寄せられ、投稿者がそれぞれに反応していった。
こうした一連の反響を受けてか、この投稿者は29日に新たな考察を投稿した。日本語の発音が「非常に均等で区切られたリズムを持ち、ひとつひとつの音が一定のテンポで流れていく」という特性に着目し、「もし言語が日々のリズム感覚を訓練しているとしたら…それは無意識のうちに、人と人との同期の仕方にも影響しているのでしょうか?」と問いかけた。
「あなたのお陰で特に何も考えてなかった日本人の私も、他の日本人や日本語話者からとても大事な歴史と分析を教わりとても勉強になりました。日本語は日本人しか伝わらないのに勉強してくれて有り難う」
こうした投げかけに対し、多く寄せられたのは感謝の言葉だった。外部からの問いが、日本語話者にとって「自分たちが何を持っているのかを照射してもらう機会になる」とする声もあった。ナイジェリアから発せられた一つの考察が、言語の構造から歴史・文化まで広がる対話を生み出したようだ。

