「由美子さん、ちょっといいかな。急ぎの編成相談があるんだ」
ある日の午後、デスクで月次報告書を作成していた私に、田中さんがいかにも「頼れる上司代理」といった表情で声をかけてきました。その傍らには、どこか落ち着かない様子で、それでいて田中さんの陰に隠れるようにして立つ春奈さんの姿がありました。
「来週に予定されている取引先への定期訪問なんだけどさ。これ、担当を春奈ちゃんから、由美子さんにスライドしてくれないかな。急で悪いんだけど、適材適所ってやつでね」
私は思わずキーボードを叩く手を止め、彼を直視しました。彼の言う商事は、業界内でも屈指の厳しさで知られる大口の取引先です。
我が社とのやり取りの担当の森永さんは、一切の妥協を許さないプロフェッショナルな女性として有名で、春奈さんもここ数週間、電話でのやり取りでその厳しい要求に頭を抱え、時には半べそをかきながら資料を作り直していたはずでした。
「どうしてですか? 春奈さんはこれまで、夜遅くまで残業して準備していましたよね。明後日が商談本番です。今から私が代わるのは、先方に対しても失礼ですし、これまでの準備が水の泡になります」
「いやあ、あそこの森永って女、相当キツいだろ? 理詰めだし、愛想の一つもありゃしない。若い春奈ちゃん一人にあんな『鉄の女』の相手をさせるのは、ちょっと酷っていうかさ。電話ですらあんなに辛そうなのに実際に顔を合わせるなんて繊細な彼女には荷が重すぎると思うんだよ。その点、由美子さんなら経験豊富だし、あしらい方も心得てるだろ?」
田中さんは「酷だ」という言葉を、さも正義の騎士のような顔で吐きました。隣で、春奈さんは申し訳なさそうに眉を下げていますが、その瞳には「助かった」という安堵の色が隠せていません。
「そもそも俺は担当になること自体反対だったんだよ。でも部長が『春奈さんの成長の機会だから』ってゴリ押すからさぁ」
これは適切な業務分担などではありません。ただの「お気に入りの愛人に嫌な思いをさせたくない」という、職私混同の極みです。
「それは、まさしく部長の言う通り彼女の成長の機会を奪うことになりませんか? それに、私の今の持ち出し案件はどうするんですか。この急な変更で、私のスケジュールもめちゃくちゃになります」
「まあまあ、そこをなんとかするのがベテランの味ってやつじゃない。由美子さんならできるよ。頼んだよ」
田中さんは私の反論を一方的に打ち切り、軽快な足取りで自席へ戻っていきました。私はあまりの理不尽さに、震える拳をデスクの下で握りしめました。
これを見過ごしては、職場の規律が崩壊してしまいます。私はその足で部長の元へ向かいました。
理不尽…急な担当変更
春奈と田中の不倫関係を、由美子も他の同僚も、見て見ぬふりを続けていました。ですが、仕事にまでプライベートを持ち込むなんて、あり得ません。由美子は部長に直談判します。
ところが、部長は「臭い物に蓋をする」という人。部長は、営業部のエースである田中の機嫌を損ねないことを選び、今回のムリな配置換えを容認したのです。
このあと、由美子は少ない時間で商談の資料をまとめ上げます。そして、取引先でのプレゼン当日。緊張した面持ちで、取引先を訪れます。
ウワサとは違った、取引先の女性
私は心臓の鼓動を抑えながら、昨日まで死に物狂いで整理したプレゼンを開始しました。
「……以上の三点が、今回私たちが提案する最適化プランです。前任者が作成していた案をベースに、貴社の懸念事項である運用コストの低減を主眼に置いて修正いたしました」
一通りの説明を終えると、森永さんは無言のまま、私の顔をじっと見つめました。沈黙が重くのしかかり、私の背中を冷や汗が伝います。不手際を指摘されるのか、あるいは急な担当変更を糾弾されるのか……。しかし、彼女が発したのは予想だにしなかった言葉でした。
「……驚きました。正直、これまでの担当者からの提案は、どこか焦点がぼやけていて、こちらの要望を表面的になぞっているだけの印象でした。ですが、由美子さんの説明は非常に明快です。私たちの本質的な課題を、正確に把握されている」
彼女はわずかに口角を上げました。それは、冬の朝の冷たい空気がふっと緩むような、高潔で美しい微笑でした。
「ありがとうございます、急な担当変更で至らない点もあったかと思いますが、そう仰っていただけると救われます」
「確かに、前任の春奈さんからあなたに変わると連絡があったのは昨日でしたね。彼女には荷が重いと、上司の方が判断されたのですか?」
森永さんの問いは、ビジネス上の興味というより、どこか「組織の在り方」を観察するような冷徹な響きがありました。
その後、一時間以上に及ぶ打ち合わせの中で、彼女は厳しい質問を投げかけつつも、私の回答を一つ一つ丁寧に吟味し、より高い次元へとプランを昇華させてくれました。
「お疲れ様でした。今日の議論は非常に有意義でした」
打ち合わせが終わり、帰り際になったところで、彼女がふと表情を和らげました。そこには、ビジネスの顔ではない、一人の年上の女性としての優しさがありました。
「ところで、由美子さん。失礼ながら、非常に顔色が悪いようですが……。無理をなさっていませんか? あなたのような優秀な人間が、組織の歪みのために擦り切れてしまうのは、社会的な損失ですよ」
その言葉に、私は不覚にも涙が出そうになりました。分かってくれる人がいた。
私の努力を、そして私の置かれた異常な状況を、初めて誰かが正当に評価してくれた。私は堪えきれず、「ここでは何ですから」と伝えると、森永さんは「では直帰とのことですし、お食事でも。お酒は嗜まれますか?」と言ってくださりました。
取引先の女性・森永さんは、厳しいだけの人ではありませんでした。由美子の疲れた様子に気づき、食事に誘ってくれたのです。由美子にとって、仕事で評価されたことも、今のツラい状況をわかってくれる人に出会えたことも、救いでした。
由美子と森永さんは、食事へ出かけます。

