「心の不調を抱えたとき、安心してかかれる精神科はどれだけあるだろうか」――そんな不安を感じたことのある人は少なくないはずです。精神科医療は、かつての入院中心から、地域で支える形へと大きく変わりつつあります。日本精神神経学会は、6月18日から開催される第122回日本精神神経学会学術総会を前に東京都内で2026年5月28日、プレスセミナーを開催。学会の取り組みや、学術総会の見どころについて、同会理事長/京都大学大学院医学研究科精神医学教室教授の村井俊哉先生と、同会会長/あさかホスピタル院長の水野雅文先生が説明しました。当日の講演内容を再構成してお届けします。
“変革期”の精神科医療、近未来の「4つの方向性」
日本精神神経学会は会員数2万人超のマンモス学会であり、「精神科医療の質の向上」「研究推進」「専門医・指導医の育成と教育体制の強化」「国際交流」、そして「組織運営の透明性」という5点を直近の課題に挙げ、さまざまな取り組みを進めています。近年、診療報酬の改定だけでなく、地域医療や総合病院での診療のあり方など、精神科医療の方向性に関わる大幅な変革が進められており、精神科医療は大きな岐路に立っています。
こうした状況下において、理事長の村井先生は、日本精神神経学会は精神医学/精神科医療の未来を見据え、中長期的なあり方として以下の「4つの方向性」を提示しました。
1:患者さんへの医療現場や社会一般における不合理な差別の解消
2:治療などを患者さん本人が決めることを当たり前とすること(非自発的入院の最小化、医療保護入院の抜本的見直し)
3:精神科医療と一般医療の間に残る合理性のない区別の解消
4:福祉や教育、行政、当事者団体などと協働し、社会が患者さんにとって暮らしやすいものになるよう貢献すること
村井先生は「これから社会が当学会に期待を寄せると予想される4つの方向性を、社会情勢に遅れることなく、時には時代の流れを先取りして推進していく。また理事会・各委員会はその活動を通じて専門性を発揮することで、新時代の精神科医療の社会的ニーズとマッチするよう全力を尽くしたい」と展望を語りました。
また専門医・指導医の育成に関しては、「患者さんが安心して受診したいと思ってもらえるような精神科医を育てる」ことを何より重要なことと述べました。そのような意味で精神科の専門性を担保するのが「精神科専門医」で、これは同学会の会員の大半が取得を目指してトレーニング期間中です。
しかしながら、精神科医療に求められる専門性がますます多岐にわたる状況を踏まえ、精神科全般の専門性を担保する「精神科専門医」に加え、「“サブスペシャルティの”専門医」の育成が重要と村井先生は述べました。また学会独自の認定システムと日本専門医機構への申請との両輪で、児童精神医学など、重要なサブスペシャルティ領域の制度設計を進めている状況が紹介されました。
村井先生は「当学会は会員数2万人を超える大規模学会であり、精神医学の発展に向けてどの課題から向き合っていくかという点で意見の多様性が生じる可能性はあると考えています。しかし、それはむしろ健全なことであり、意見の対立がある中で最適解を見つけていくことが理事長の役割であると心得ております。未来の精神科医療を担う活力に満ちた学会を目指し、取り組みを進めてまいります」と総括しました。
「社会変化に精神科医療は適応していく」―総会の注目演題と会長の思い
2026年6月18~20日にパシフィコ横浜ノースで開催される学術総会のテーマは「社会の中の精神医療、社会を変える精神医学」。一般演題319、教育講演27セッション、特別講演13セッションなど、多彩なプログラムが並びます。
「コロナ禍を経て学会のオンライン参加が増えた今こそ対面での交流を重視したい」――。会長の水野先生は現地参加の重要性を強調します。そのため同総会では、会場でしか体験できない精神療法や心理アセスメントなどの体験型企画も用意されています。
AIの進歩が人の心を揺るがす? 現代社会の課題に着目する会長講演
会長講演では、学会テーマと同じ「社会の中の精神科医療」について、脳科学やAIの進歩の速さを例に講演が行われます。
脳への電気刺激療法やゲノム医療など、昨今の精神科医療には新たな進展がみられます。その一方で、「個人の悩みは専門家ではなくAIに相談する時代であり、科学技術の発展が日常生活や人間関係を根底から揺さぶっている」と、水野先生は近年の社会変化を指摘します。また、こうした社会変容は人々に対し新たな不安や孤立感も生んでおり、「社会の急速な変化に対し、どのように臨床的アプローチをしていくべきかがこれからの精神科医療に問われている」と説明しました。
「尾木ママ」も登壇、子どもの心の問題に着目する招待講演
招待講演の一つには「尾木ママ」の愛称で知られる教育評論家の尾木直樹さんが登壇し、いじめの問題を取り上げます。「いじめの被害がのちの精神疾患の発症につながり得ることは科学的根拠が示されており、被害者は生涯にわたり人生に影響を受けます。私たちも精神科医として長期的に関わっていく課題です」と、水野先生はいじめと精神科医療の関係性について説明しました。
もう一つの招待講演では、東京都監察医務院で数多くの解剖を手がけてきた法医学者の福永龍繁さんが登壇します。同氏は虐待を受けて亡くなった子どもの解剖結果で、免疫を担う器官「胸腺」が縮んでいた例を報告した人物であり、社会的視点から心の発達の問題まで幅広く語られる予定です。
「総合病院から精神科病床が消える?」存続危機に向き合うシンポジウム
会長企画シンポジウムは、精神科医療の「課題」に正面から向き合う内容が目立ちます。
さまざまな「課題」の中でも特に水野先生が「ピンチ」と表現したのが、総合病院の精神科です。精神科は検査や手術が少なく、人件費がかさみやすく収益につながりにくい「非採算部門」とされ、入院用の精神科病床は総合病院から姿を消しつつあります。心と体の境目のない医療を支えるうえで、精神科病床は欠かせない存在だとして、その意義を議論します。
ゲーム開発者を招いた公開講座―市民も楽しめる企画を用意
3日目の20日(土)には一般の人も聴講できる市民公開講座を開催。ここでは「信長の野望」や「三國志」などのタイトルで知られるゲーム開発会社・コーエーテクモホールディングス代表取締役会長で、「シブサワ・コウ」のペンネームでゲームクリエイターとしても活動している襟川陽一さんが登壇し、「シブサワ・コウのゲーム開発」と題して、娯楽としての側面やものづくりの創造性、精神保健の観点から講演します。
「患者・家族からの信頼」を得るうえでの課題は?
質疑応答の場では、「信頼される精神科医療を目指す」という方針に関連し、患者さんや家族からの信頼獲得における現状の課題を問う質問がありました。
これに対して水野先生は、医療機関側の問題に加えて「治療の遅れ」を課題に挙げました。現状は、地域でなかなか受診につながらない人や、家庭内で受診をためらう人が多く、患者さんと医療の間にある「壁」や見えにくさを一つずつ解きほぐす段階です。また昨今では精神科の受診者層も変化し、10代や20代の若年層患者も増加しているといいます。これらを踏まえ「ニーズが多様化するなかで、何が求められ、どんな努力が必要かを共有したい」と回答しました。
市民公開講座で「ゲーム」を題材にした理由は?
市民公開講座で「ゲーム開発」を取り上げた狙いについても質問がありました。これに対して水野先生は「精神医学は〈人間の心と行動〉を扱う学問であり、ゲームはまさにその最前線にあります。
ゲームは今や、数億人の人間の感情・動機・没入・達成感を設計する営みです。精神医学が長年問い続けてきた『人はなぜ動き、なぜ傷つき、なぜ回復するのか』という問いと、ゲームデザインの問いは、実は同じ場所にあるかもしれません」と回答しました。
ゲームは依存の問題が取り上げられがちである一方、エンターテインメントや創造性、精神保健の観点からも重要な領域であり、幅広い視点で市民と共有したいと述べました。

