上手くても下手でも「自己完結」?日本のストリートピアノに欠けているもの
腕自慢と未熟さ。一見すると両者は真逆に思われますが、いずれも他者の目が存在していないことは同じです。技術を見せびらかすのも、納得いくまで練習したいのも、根底にあるのは、公共の場をどうとらえるかという視点の不在だからです。だから日本のストリートピアノには見知らぬ他者との意外な交流が生むグルーヴが皆無なのです。
上手かろうが下手だろうが、自己完結の世界。自宅で弾いているのと何ら変わらないのに、わざわざ出掛けてきているような不自然さが漂うのです。
では、今回の都庁のケースはどうでしょう。投稿主の演奏する動画からは、彼が真剣にピアノに向き合っていることが伝わってきます。そこには、アマチュアだからこそ大事にする神聖さがある。
筆者は、そのように音楽に接することは尊いと思うし、そうした市民が増えることは社会的安全のセーフティーネットとなり得るとも考えます。
一方で、それもひとつの価値観に過ぎないという視点を失ってはいけません。みんながみんな、ストリートピアノの演奏を黙って見守ることを前提にしてしまえば、それがいかに美しい理念であっても、傲慢になってしまうからです。
「それがストリートなのでは?」都庁の騒動から考えること
もっとも、都庁の職員が雑談の声量に注意したと書かれているもののそれが意図して演奏の邪魔を目的としたものだったと断定するのは難しい。自分が演奏するときは必ずおしゃべりされるというのならばわかりますが、たまたまそういう人たちと遭遇してしまうことだってあるでしょう。それがストリートなのではないか。
そう考えたときに、公共の場で自分の納得いかない環境で演奏ができなかったと不服を訴えることは、果たして正当なことなのかという疑問も浮かんできます。
簡単にいうと、お互い様という観念のないところに、公共性はあり得るのかという話なのです。
それは、ピアノの上手い下手以上に、もっと大切な心掛けなのではないでしょうか。
<文/石黒隆之>
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4

