1日1,000個も売れる!? 8時間待ちのおにぎり専門店「ぼんご」が人気の理由

東京・大塚の駅前には、道をまたいで続く長蛇の列があります。列の先は、わずか12席のおにぎり専門店「おにぎりぼんご」。昭和35年創業の老舗です。

全国から人が訪れる“おにぎりの聖地”で、待ち時間は8時間に及ぶことも。1日の売上は約1,000個、新潟県産のコシヒカリを70キロも使い切ります。

多くのメディアで取り上げられ「握らないおにぎり」と呼ばれるふんわりとしたおにぎりは、お米だけで150g、具材を入れると200gにもなるビッグサイズ。口にした瞬間にお米がやさしく崩れ、隅々まで詰まった具材の味が広がります。

そのおにぎりと同じくらい人気なのが、店主の右近由美子さん。右近さんに会うために通う人も多く、開店前にツーショットの写真を撮る様子もうかがえます。
家出同然で上京し、約40年間ずっとおにぎりを握り続けて全国屈指の人気店にした右近さんが、どのようにして“おにぎり”で人気を得たのか、その半生を聞きました。

新潟生まれの家出少女が、経営難のおにぎり店を救う立役者に

1952年、新潟市で生まれた右近由美子さんは厳格な父の元で育ちました。19歳で自由を求め、東京に飛び出したそうです。

「住む家も仕事も決めないまま、身一つで上京しました。上野に着いて、とりあえずお茶でも飲もうと入った喫茶店で『従業員は募集してませんか』と聞いたら、向かいの喫茶店で募集していることを教えてくれました。その後、すぐ住み込みではたらくことが決まりました。」

トントン拍子に住むところと仕事が決まったものの、悩んだのが食事です。
お米の名産地・新潟県で生まれ育った右近さんは、東京で食べるお米が口に合わず、おいしいと思えませんでした。主食にはお米ではなく、パンや麺類を選んでいたと言います。

そんな“お米難民”だった右近さんが、東京で知り合った同郷の友人に連れられて行ったのがおにぎり専門店「ぼんご」。上京してから初めて「おいしい」と思えるお米に出合った右近さんは、その場でおにぎり2個をペロリと完食し、さらに4個を持ち帰りました。

当時の店主は、のちの結婚相手である右近祐(タスク)さん。あまりのおいしさに通い詰めるうち親密になり、24歳で結婚しました。

結婚してから数年間は皿洗いなどを手伝っていたものの、おにぎりは握っておらず、握りたいとも思っていなかったそうです。しかし、おにぎりを握っていた職人が次々と体調不良になり、右近さんは夫・祐さんから「明日から握れ」と言われます。指導はほとんどありませんでした。

「主人は私がつくったおにぎりやお味噌汁にダメ出しするだけで、どこがダメなのかは教えてくれないんです。常連のお客さまも手厳しくて、『あんたの作る味噌汁は世界一まずい』と言われたこともあります(笑)」

当時、ぼんごの経営は厳しく、借金もありました。散々ダメ出しされながら
「お金のため、お金のため」
と朝4時からから深夜0時過ぎまで必死ではたらいていたそうです。

そこからどうやって人気店になったのかを聞くと、右近さんは「お客さまに育ててもらった」と微笑みます。

「ぼんごは握りたてのおにぎりをすぐに提供できるカウンタースタイルで、お客さま一人ひとりの表情がよく見えるんです。いくら私がおいしいと思っても、お客さまが笑顔にならなかったらダメ。カウンター越しにもらうお客さまの感想を参考に、おにぎりを進化させていきました」

今やぼんごのおにぎりは200gとボリューミーですが、当時はもっと小さかったそうです。
とあるサラリーマン男性が
「給料日前に100円のお味噌汁を頼むくらいなら、おにぎりをもう1個頼みたい」
とお味噌汁を断ったため、少しでもお腹いっぱいになるように大きくしたと言います。
増やしたのはお米だけでなく、具材も端から端まで溢れんばかりに入っています。

「おにぎりの具材が少ししか入ってないと、さみしいじゃないですか。私が作るなら、絶対に端っこまで具材を入れたいって決めていたんです。最後の一口までおいしく食べられるように、全体にしっかり具材を入れています」

お客さまの要望に答えるうちに、創業時は20種類だった具材は約60種類にまで増えました。
種類が増えたことで「おにぎりの具を2つ以上入れたい」と言う人も現れ、筋子+さけ、蘭豚キムチ+納豆など、さまざまなトッピングを組み合わせたメニューも登場したのです。

気が付くと赤字は黒字になり、行列が耐えない人気店になっていました。

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行列店になってもわずか12席のカウンターを守る理由

メディアでも頻繁に取り上げられるようになり、すっかり名物女将になった右近さんには
「これだけ人気なんだから、フランチャイズ展開をしたら?」
「別の場所に二号店を出したら?」
といった声も多く寄せられましたが、首を横に振り続けました。

「商売って、そんな簡単なものじゃないと思うんです。お店はその土地のお客さまに愛されて育っていくものなんですよね。このお店をそっくりそのまま銀座に持って行ってもうまくいかないと思います。銀座にお店を出すなら、また1からその土地やお客さまに育ててもらわないといけないんです。
ぼんごに修行しに来る人もいますが、私が伝えているのは“やり方”ではなく“思い”です。技術は全員違って当たり前なので、それぞれのお店でお客さまといっしょに作っていってほしいですね」

2022年、ぼんごは行列が通行人の妨げになっていたことから、通行人が比較的少ない大塚駅前の新店舗へと移転しましたが、拡大はしませんでした。長年愛されてきたカウンターや昔ながらの内装もできる限り再現しています。

席の目の前にあるカウンターでおにぎりを握るぼんごには、郷愁を覚える懐かしさがあり、東京で一人暮らしをしている学生も多く訪れます。

「もともとおにぎりはお店で出すような食べ物じゃありませんでしたが、今はお店の食べ物にも温もりを求める方が増えています。おにぎりって、信頼関係がないと口にできない食べ物だと思うんです。道端で知らない人が握ったおにぎりを手渡されても、食べたいとは思わないですよね。
日本人がおにぎりを好むのも、小さいころにお母さんに握ってもらった思い出があるから。食べ物って、ただお腹を満たすとか、命をつなぐだけのものじゃないんです」

そう語る右近さんにとって、究極のごちそうはお母さんが握ってくれた梅干しと筋子のおにぎり。
数年前にお母さんが亡くなったとき、上京したばかりの右近さんがお母さんへ送った手紙の束が実家から出てきました。一通一通読み返していると、とある一文に目が留まります。

「今度東京に来るとき、お母さんの作ったおにぎり、持ってきてね」

手紙には涙の痕が残っていました。
右近さんはそれを“上京したばかりでさみしかった自分が泣きながら書いた手紙”だと思っていましたが、最近になって「これはお母さんの涙だ」と気付いたそうです。

「おにぎりは心と心をつなぐ食べ物。ぼんごでも、私が握ったおにぎりを食べて『お母さんが作ったおにぎりみたい』と泣いてくれた女性がいて、ああ、このためにおにぎりを握っているんだなあ、と思いました。だからぼんごでは“心あるおにぎり”を届けたくて、お客さまの目の前で大切に握っています」