16歳で両足を失った葦原海さん、車椅子モデルとしてパリコレ出演する理由。

違和感の正体

リハビリ専門の病院に移ってから4ヵ月後、退院。車椅子での生活が始まりました。歩道の段差を乗り越えるのに苦労したり、エレベーターの場所を探すのに手間取ったりと不自由を感じながらも、葦原さんは解放感を楽しみました。専用の車椅子が届く前に、大好きなディズニーランドにも行きました。

一通りのことは、自分でできます。それでもエレベーターのない高校に復学するのは難しく、やむを得ず退学して特別支援学校に移りました。大道具の職に就く夢も、遠ざかっていきました。中学生の頃から進学したかった大道具の専門学校は、車椅子の生徒を受け入れていなかったのです。

それでも「いつか大道具に」という思いは揺るがず、2016年、将来役に立つだろうと、東京にあるウェブデザインの専門学校に入りました。授業では、イラストレーターやフォトショップの使い方を学びます。もともとパソコンでの作業が得意でなかったこともあり、「自分には向いていない」と感じるようになりました。

学校は1年制で、入学から数ヵ月後には就職活動が始まります。どうしようかと悩んでいたタイミングで、NHKの番組が主催するファッションショーに出ないかと知り合いから声をかけられました。その番組は2020年に予定されていた東京パラリンピックに向けて企画されたもので、ファッションショーにはほかの障害を持つ人たちも参加することになっていました。葦原さんは、「番組制作の裏側が見たい!」と参加を決めます。


NHK主催のファッションショーに出演した葦原さん

おしゃれが好きな葦原さんは、当日の衣装合わせやヘアメイクに心躍らせました。舞台裏で慌ただしく動き回るスタッフの動きにも見入りました。それは初めて体験する有意義な時間でしたが、ステージから会場を見渡した時、気になることがありました。観客席にいたのは、障害者の家族や福祉関係者、番組やショーの関係者ばかり。番組放送当日、この違和感の正体に気付きます。

「視聴者からSNSにコメントが届いたんですけどみんな福祉関係の人で、なんでそういう人からしかコメントが来ないんだろうなと思って。パラリンピックやパラスポーツの認知を高めるためのイベントだと聞いていたのに、そもそも障がい者やパラリンピックに興味関心がない子たちに響いていない。それが腑に落ちませんでした」

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「架け橋」になるために

中学生の時も、入院している時も、退院してからも自分が定めた目的地に向かって着実に歩みを進めてきた葦原さんにとって、目標は達成すべきもので、課題は解決するもの。就職活動を通して大道具の仕事に就くのは現実的に難しいとわかっていたこの時、大きな目標ができました。

障害者と健常者の間に距離があるのなら、私が架け橋になろう。そのための手段として必要なら、自分が表舞台に立とう。

葦原さんは、後日行われた番組の打ち上げから動き始めます。番組制作に携わったスタッフやステージを取り仕切ったスタッフと意識的にコミュニケーションを取りました。その際、演者の一人として率直な感想だけじゃなく、「架け橋になりたい」という思いや「もっとこうしたら良くなるのでは?」とアイデアも話しました。

まだ十代の女の子が、真剣に訴えかけてきます。その姿に心を動かされた大人から、少しずつ仕事が舞い込んでくるようになりました。それは地域で開かれるフェスの司会など小さな仕事から始まりましたが、葦原さんは一人でバスに乗り、電車に乗り、体当たりで仕事に臨みました。そして、行く先々でスタッフや関係者に感想、想い、アイデアを伝えるようにしました。

同時進行で就職活動も続け、テレビ関係の会社から内定を得ます。入社の1ヵ月前、新入社員が会社に集まる機会があり、その時、人事の担当者に相談しました。

「モデルの仕事をやっています。入社後も続けたいと思っているのですが、大丈夫ですか?」

葦原さんの活動を社会貢献と捉えた会社側は、副業を認めてくれました。これで、思う存分に活動できます。葦原さんは本業と向き合いながら、あちこちに出向きました。学校で講演する時には、有給休暇を取りました。どこに行っても忘れず、感想、想い、アイデアを伝えました。

プライベートでも、積極的に異業種交流会やイベントに足を運びました。いろいろな仕事をしている人と話すのが好きだったから、交友の輪も自然と広がりました。やがてそこで知り合った人たちからも、仕事の連絡がくるようになっていきます。