1993年のクラシック三冠は、3頭の馬がそれぞれ一冠ずつを分け合った。皐月賞は武豊が手綱をとるナリタタイシン。日本ダービーは柴田政人が手綱をとるウイニングチケット。そして、なかでも異彩を放ったのが、前の二冠をいずれも2着と苦杯を飲まされ、その鬱憤を晴らすかのように菊花賞を圧勝したビワハヤヒデだった。
早田牧場の場主、早田光一郎は1990年の初頭、英国のニューマーケットで開かれたセリ市を訪れた。目的はノーザンダンサー産駒の繁殖牝馬を購買すること。自らが中心となって導入したロベルト系種牡馬ブライアンズタイムの交配相手として血統的に相応しいノーザンダンサー牝馬をぜひとも手に入れたかったからだ。そこで目を付けたのは無名の種牡馬シャルード(父Caeo)の仔を宿した状態で上場されていたパシフィカスという牝馬。歴史的種牡馬ノーザンダンサーの仔ゆえに大枚はたくことを覚悟していた早田だったが、彼女自身の競走成績が優れなかったことや、腹に無名種牡馬の仔がいることも嫌われてか、わずか3万1000ギニー(当時のレートで約550万円)というリーズナブルな価格で買うことができた。
そのあとパシフィカスは日本へと輸入され、早田牧場の生産拠点となっていた新冠支場で出産する計画だったが、輸入馬の混雑で検疫期間が後ろへずれ込んだため、出産予定日が間近に迫ってしまった。そのためパシフィカスは成田空港からより近い福島県伊達郡にある早田牧場の本場で出産。このとき生まれたのちのビワハヤヒデは、戦後の日本競馬では極めて珍しい福島産の競走馬となった。
生まれつき頭が大きく、けっして素晴らしい馬体の持ち主とは言えなかったビワハヤヒデは大きな期待を背負ったわけではなかったが、初戦(阪神・芝1600m)でいきなり関係者を唸らせる驚異的な走りを見せる。若手の岸滋彦を背に中団でレースを進め、徐々に位置を押し上げると直線で一気に抜け出して後続を突き放し、ゴールでは2着に1秒7もの差を付ける大差勝ちを収めたのである。
続くもみじステークス(OP)をレコード勝ちし、デイリー杯3歳ステークス(GⅡ)も快勝した芦毛の新星は勇躍、朝日杯3歳ステークス(GⅠ)にオッズ1.7倍という圧倒的な人気を背負って臨んだ。そして直線で先頭に立った際には人気に応えたと思われたが、3番人気の外国産馬エルウェーウィンに並びかけられると熾烈な追い比べにハナ差敗れて2着となってしまった。
それ以降、ビワハヤヒデは勝てそうで勝てないレースが続き、“シルバーコレクター”という有り難くない呼び名を与えられてしまう。 共同通信杯4歳ステークス(GⅢ)を2着としたところで陣営は鞍上を名手、岡部幸雄にスイッチ。コンビ初戦の若葉ステークス(OP)こそ格の違いで勝利を収めたものの、続く皐月賞(GⅠ)ではナリタタイシン、日本ダービー(GⅠ)ではウイニングチケットに惜敗して、いずれも2着に甘んじた。
岡部幸雄は常々、なかなか結果を出せない馬に関して「無事に行くことが一番。そうすれば、いずれ順番が回ってくるから」と口にし続けていた。その言葉を具現化するかのように、順調に夏を越したビワハヤヒデは秋シーズンにひと皮剥けた姿を見せる。トライアルの神戸新聞杯(GⅡ)を2番手からの抜け出しで危なげなく快勝。いよいよ三冠最終戦の菊花賞(GⅠ)へと向かった。
京都新聞杯(GⅡ)を辛勝したウイニングチケット、脚部不安のため“ぶっつけ”にはなったもののナリタタイシンもどうにか間に合い。春の三強が再び顔を揃えた一戦。ビワハヤヒデは3番手付近でレースを進めると最終コーナーでは早くも先頭に立ち、直線では後続を突き放す一方。後方からまくってきたステージチャンプに5馬身もの差を付け、最後は名手の岡部らしく手綱を抑えたまま余裕の走りでゴール。伸びきれなかったウイニングチケットを3着、故障明けが堪えたナリタタイシンを17着に降して、最後の一冠を手に入れた。
その後、単勝1番人気で迎えた次走の有馬記念(GⅠ)はトウカイテイオーによる奇跡の復活劇に遭ってまたも2着に敗れた。しかしこの年は複数のGⅠタイトルを手にした馬がいなかったため、一年を通じてすべてを2着以内とした安定した成績が評価され、JRA賞において栄えある年度代表馬に選出されたのだった。それは中長距離のカテゴリーで最強馬のポジションに就いたことを意味していた。
そして、ビワハヤヒデの1歳下の異父弟であるナリタブライアン(父ブライアンズタイム)が朝日杯3歳ステークスを制して、JRA賞最優秀3歳牡馬に選出。翌年のクラシック戦線での活躍が期待されていた。
ビワハヤヒデは翌春、京都記念から始動した。ここでは2着のルーブルアクトに7馬身差を付けて快勝。春シーズンの大目標である春の天皇賞(GⅠ)へ向かった。
ウイニングチケットは春シーズンを休養に充てたため不在となったが、ナリタタイシンは目黒記念(GⅡ)を快勝した余勢を駆って参戦。三強ならぬ、“二強”の激突となった。 レースは力の入るものだった。ビワハヤヒデが2番手で流れに乗ると、ナリタタイシンは後方で脚を矯める。そして直線へ向いてビワハヤヒデが力強く抜け出して後続を突き放しにかかるところへナリタタイシンが猛追した。しかし、それも差を詰めるのみにとどまり、ビワハヤヒデは1馬身1/4差を付けてライバルを一蹴し、二つ目のGⅠタイトルを奪取。もはやかつての“三強”はビワハヤヒデの「一強時代」になったことを如実に表していた。
天皇賞(春)を完勝したビワハヤヒデは宝塚記念(GⅠ)へ向かう。ここでも道中4番手から徐々に位置を押し上げて先頭へ。その後は後続をぶっちぎるワンサイドゲームとなり、ゴールでは2着のアイルトンシンボリに5馬身もの差を付けていた。末恐ろしいまでの強さだった。
この春、弟のナリタブライアンは皐月賞、日本ダービーのクラシック二冠を圧勝。彼が菊花賞で三冠制覇を成し遂げた暁には、ジャパンカップか有馬記念で兄ビワハヤヒデとの兄弟対決が実現するのではないかという話題がファンの間で大きな盛り上がりを見せ始めていた。
秋はオールカマー(GⅡ)から始動したビワハヤヒデは、ここが長期休養からの復帰戦となったウイニングチケットを1馬身3/4突き放して順調な滑り出しを見せた。
そしてビワハヤヒデは春秋制覇がかかる秋の天皇賞(GⅠ)へ堂々と駒を進める。骨折で休養中のナリタタイシンは不在だったが、復帰戦をひと叩きされたウイニングチケットも無事に参戦。ビワハヤヒデが単勝オッズ1.5倍の1番人気、ウイニングチケットが5.0倍の2番人気となり、ともにゲートインした。
しかしレースはあまりにも意外な結末を迎える。3番人気に推されたネーハイシーザーが2番手に付けると、ビワハヤヒデ、ウイニングチケットがその後ろにポジションを取る。馬群はその順列を守りながら直線へ向き、3頭の追い比べになるかと見えた。
ところがウイニングチケットが早々に争いから脱落すると、ビワハヤヒデもいつものような伸びが見られずに坂上で振り切られ、ネーハイシーザーに勝利を譲ってしまった。結果、ビワハヤヒデは生涯で初めて連対を逃す5着に敗れ、ウイニングチケットも8着に沈んだ。ビワハヤヒデは入線後、鞍上の岡部が下馬し、馬運車に乗せられて馬場を去った。
ウイニングチケットの屈腱炎発症の報が駆け巡った翌日、ビワハヤヒデも同じ病に襲われていたことが判明した。ビワハヤヒデは全治1年との診断を受け、陣営が協議した結果、引退・種牡馬入りとの発表がレースから3日後の11月2日に行なわれた。あまりにも突然の幕切れに誰もが呆然とするばかりだった。そして、菊花賞も圧勝して三冠馬となったナリタブライアンとの兄弟対決というファンの夢はこの瞬間に霧消した。
春のGⅠレース2連勝が評価されたビワハヤヒデはJRA賞の最優秀5歳以上牡馬に選出。翌年の1月16日に京都競馬場で引退式が挙行され、ターフに別れを告げた。
種牡馬としては大成しなかったビワハヤヒデは2005年に繁殖生活から引退。以降は功労馬として繋養先である日西牧場(北海道・日高町)で余勢を過ごし、2020年7月21日、天寿をまっとうし老衰で死んだ。
一時は“シルバーコレクター”と揶揄されながらも、安定感に満ちた走りを続け、ついにはGⅠレース3勝という高みへ駆け上がったビワハヤヒデ。弟ナリタブライアンの名声に搔き消された感があるが、菊花賞以降に見せた大舞台での走りは王者に相応しいものだった。(文中敬称略)
文●三好達彦
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