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【W杯回顧録】第2回大会(1934年)|“独裁者”が操ったイタリア大会――ムッソリーニの思惑と開催国優勝の舞台裏

【W杯回顧録】第2回大会(1934年)|“独裁者”が操ったイタリア大会――ムッソリーニの思惑と開催国優勝の舞台裏


 北中米ワールドカップが6月11日に開幕を迎える。4年に一度、これまでも世界中のサッカーファンを魅了してきた祭典は、常に時代を映す鏡だった。本稿では順位や記録の先にある物語に光を当て、その大会を彩ったスター、名勝負、そして時代背景などをひも解いていく。初回は第2回大会(1934年)だ。

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●第2回大会(1934年)/イタリア開催
優勝:イタリア
準優勝:チェコスロバキア
【得点王】オルドリッヒ・ネイエドリー(チェコスロバキア):5得点
 
 欧州大陸で初開催となった第2回大会は、スポーツを政治利用する悪しき伝統の口火を切ることになった。

 イタリアで独裁体制を築いていたファシスト党党首のベニート・ムッソリーニは、強固な政権を喧伝にはワールドカップが最適だと考えた。そこでジョルジョ・バッカーロ将軍をイタリアサッカー連盟に送り込み、大会招致を厳命する。結局8度のFIFA総会を経て、イタリアは「参加国の経費を全て負担」することを条件に大会招致に成功した。

 参加希望国を集めるのもひと苦労だった第1回大会とは異なり、この大会からは地域予選が導入され、全32か国がエントリー。予選を勝ち抜いた16か国が本大会への出場権を獲得した。反面まだ開催国枠もなく、イタリアは開幕2か月前にギリシャを4-0で下して本大会へ進んでいる。

 優勝が至上命題のイタリアは、なりふり構わず勝つための策を巡らせた。まずムッソリーニは、サッカーを国威高揚の起爆剤として重要視し、1929年にはセリエAを創設。18チームによる全国リーグがスタートしたのだが、有力クラブは次々に南米から有力な選手たちを獲得していく。

 ユベントスはアルゼンチン代表のライモンド・オルシとルイス・モンティ、ローマはエンリケ・グアイータ、インテルもアッティリオ・デマリアと契約し、彼らはいずれもイタリア代表としてワールドカップに臨むことになった。

 さらにムッソリーニが自らイタリア戦のレフェリーを決めたのは明白な事実だったようで、事前対面があったという告白もあった。

 逆にイタリアに主力を引き抜かれたアルゼンチンは出場辞退も検討したが、第3回大会の開催を目ざすために妥協案として二線級の選手たちを送り込む。もちろん前回の決勝で戦った選手はひとりも含まれなかった。また初代王者のウルグアイは、自国開催の第1回大会に欧州勢が4か国しか参加しなかったことに抗議の意を込めて出場を辞退。第2回はディフェンディング・チャンピオンを欠く唯一の大会となった。

 イタリア大会は出場16か国によるノックアウト方式で行なわれたため、遠路はるばる南米からやって来たアルゼンチンやブラジルは1試合でUターンすることになり、同じく米国も初戦で開催国のイタリアに1-7と大敗し、再び長い帰国の途に着くことになった。

 もっとも滑り出し好調だった「ムッソリーニのアズーリ」と呼ばれたイタリアも、中3日の準々決勝ではスペイン相手に死闘を強いられた。スペインは30分にルイス・リゲイロが均衡を破ると、2点目のゴールも決めたかに見えた。だがベルギー人のルイス・バエール主審はオフサイドの判定で取り消しに。

 一方イタリアは、前半終了間際にFKからGKサモラがこぼしたボールを、ジョヴァンニ・フェッラーリが押し込み同点。スペインの選手たちは、イタリア側がオフサイドポジションでGKの邪魔をしたと抗議をしたが認められなかった。

 試合は延長戦を経ても1-1のまま動かず翌日に再試合となるのだが、荒れに荒れた対決でスペインは7人、イタリアも5人のスタメンを入れ替えることになる。翌日の再戦では、11分に現ミラノのスタジアム名にもなっているジュゼッペ・メアッツァがヘディングでゴール。これが決着弾となった。だがこの再試合でも反撃を試みたスペインのゴールがオフサイドの判定で取り消されるなど後味は悪く、後にスイスの主審は、FIFAとUEFA両方から永久追放の処分を受けている。
 
 疑惑の判定もあり死闘を潜り抜けたイタリアにも強行日程という大敵があり、2日間で210分間の激戦からわずか中1日で準決勝が待っていた。しかも対戦相手は、当時世界最強で「ヴンダーチーム」と称されたオーストリア。これが事実上の決勝戦というのが大方の見解だった。

 試合当日は激しい雨が降り、ピッチは今では考えられないほどの泥んこ状態。これが開催国に味方した。ヴンダーチーム得意の繊細なパスワークが影を潜める。イタリアは19分にグアイータが均衡を破ると、そのまま流れも引き寄せて再び1-0で制した。

 決勝戦の舞台は、ローマの「スタディオ・ナツィオナーレPNF」、現在のスタディオ・オリンピコである。貴賓席にはイタリアの全試合を現場観戦したムッソリーニと当時のFIFA会長ジュール・リメが並んだ。

 イタリアと覇を競ったのはチェコスロバキア。イタリアはジャンピエーロ・コンビ、チェコスロバキアもフランティシェク・プラーニチカ、両守護神が好守を見せて互いに譲らぬまま終盤へと突入していく。
 
 76分、先に覇権に近づいたのは、チェコスロバキアだった。怪我で1度ピッチの外に出ていたアントニーン・プチが戻ってくると、角度のない位置から強烈なシュートを突き刺す。この先制ゴールでアウェーチームが勢いづいた。だがイジ・ソボツカが決定機を逃し、フランティシェク・スヴォボダのシュートもポストに阻まれてしまう。

 これでイタリアが息を吹き返した。81分、フェッラーリのパスを受けたグアイータが冷静にループでゴールネットを揺らす。イタリアが土壇場で追いつき、2度目の延長戦に持ち込む。そして95分、指揮官のヴィットーリオ・ポッツォが「彼がいれば最初から1点リードしたようなもの」と賞賛を惜しまないメアッツァが重要な役割を演じた。

 実は試合中の故障で、メアッツァは足を引きずりながらやっと動くような状態だった。しかし、それが逆にマークの甘さを誘発した。フリーで受けたメアッツァがグアイータに高精度のパスを送ると、最後はスキアビオが逆転ゴール。世界一を手繰り寄せた。

 サッカーで愛国心を刺激し、政権の盤石ぶりを示そうとしたムッソリーニの構想は大成功裡に終わり、2年後のベルリン五輪ではアドルフ・ヒットラーが繰り返すことになる。

 ただし、この負の遺産だらけの大会を機にイタリアの黄金時代が幕を開けた。ポッツォ率いるチームは、ベルリン五輪、さらにはワールドカップの連覇へと未踏の快進撃を続けていくのである。

文●加部究(スポーツライター)

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配信元: SOCCER DIGEST Web

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