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【WBCコラム前編】野球ブラジル代表の挑戦――礎を築き上げたのは日本からの移民「指揮官は日本人コミュニティーを体現するような存在」

【WBCコラム前編】野球ブラジル代表の挑戦――礎を築き上げたのは日本からの移民「指揮官は日本人コミュニティーを体現するような存在」

ブラジルのスポーツ界ではサッカーがすべてを支配し、次にバレーボールの人気があり、その後に続くのは水泳、ハンドボールといった競技で、野球はほぼ影の存在だ。だがマイナーではあっても、実は豊かな歴史と熱狂的なコミュニティーを持っていて、何より日本と深いつながりがある。ブラジルにおける野球の歴史のすべては一隻の船から始まった。

 1908年、「笠戸丸」が最初の日本人移民を乗せてブラジルに到着した。新天地での厳しい暮らしを耐え抜くため、彼らがその不屈の精神と共に持ち込んだものがある。野球だ。

 もちろんそれ以前にもブラジルに野球はあった。1900年代初頭には、ブラジルの大学や企業にいたアメリカ人が、サンパウロで試合を行なっていた記録が残っており、1910年にサンパウロのマッケンジー大学が主催した試合には、サッカーの試合よりも多くの観客を集めたという話もある。しかし継続的な支援がなく、ブラジル社会に根付かずに、初期のチームは消滅していった。

 ブラジルで野球を真に発展させたのは日本人だった。また彼らは野球そのものだけでなく、日本のスポーツの特徴である「規律と組織力」も持ち込んだ。日本移民がブラジルに来た当初、主にサンパウロ州内陸部のコーヒー農園で働いていた。厳しい労働の合間の娯楽として、彼らは野球を始めた。日本人入植地に野球チームが生まれ、リーグが創設。同じ農園で働いていた多くのブラジル人もチームに加わるようになった。

 しかし、第二次世界大戦が勃発し、ブラジルは日本、ドイツ、イタリアとの戦争に突入。日本人コミュニティーは公の場で集まることも、母国語を話すことも、スポーツを行なうこともできなくなり、野球は完全に停止した。

  ブラジルでの野球が復活したのは戦後。日本から再び大規模な移民の波が押し寄せ、パウリスタ野球ソフトボール連盟が設立された。ブラジルで成功した日系企業がセミプロチームのスポンサーとなって野球は拡大した。だが、それでもブラジル人にとって野球はいつまでも「日系移民のスポーツ」でしかなかった。

 1960年代から1970年代にかけて、日本、アメリカ、パナマ、ベネズエラなど、野球強国の代表チームがブラジルを訪れ試合を行なったが、その時のチームもほぼ二世、三世で構成されていた。

 その後またブラジル野球に危機が訪れる。ブラジルの経済危機とともに、野球の担い手であった日系の若者たちが、より良い仕事を求めて日本へ渡るようになったのだ。彼らのことをブラジルでは「デカセギ」と呼ぶ。才能ある選手たちが去り、残されたチームは弱体化していった。しかし、それでも野球は死ななかった。

 ブラジルには約1万5000人の野球選手が連盟に登録しており、その多くは日系人の多いサンパウロ州、パラナ州、マットグロッソ州に集中している。公式の野球場はサンパウロにある2500人収容のミエ・ニシ市営野球場とパラナ州ロンドリーナにある5000人収容のスタジアムの2つ。ちなみにミエ・ニシとはかつてのサンパウロ野球連盟元会長の母親の名で、彼女は腹を空かせた選手たちのために、いつも食事を用意していたという。

 現在のブラジルには優秀な選手も少なくなく、アメリカ球界は、ブラジルを新たな才能の宝庫として注目している。これまですでに5人のブラジル人がMLBでプレー、もしくは現在プレーし、さらに15人がマイナーリーグで、メジャーデビューを目指して邁進している。

  このような野球ブラジル代表の転換点は、12年にパナマで開催された第3回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)予選だ。1回戦で開催国パナマに3対2で競り勝ち、2回戦ではコロンビアに7対1で快勝。決勝では敗者復活戦を勝ち上がってきたパナマ相手に1対0で勝利し、本大会出場という歴史的な快挙を成し遂げた。

 チームは日本・福岡での本大会第1ラウンドに出場。初戦の日本戦では7回終了時点3対2とリードしていたが、8回に3点を奪われて3対5で敗戦。安打数は日本の7に対して、ブラジルは9だった。続くキューバ戦は2対5で敗れ、3戦目の中国戦は7回まで2対0とリードするも、8回に5失点してしまい2対5。3連敗を喫して予選敗退したものの、日本で見せた素晴らしいパフォーマンスは、野球ファンに感動を残したものだ。

 ブラジルは17年と23年のWBC出場も目指したが、予選敗退。しかし25年の26年大会予選で結果を出した。初戦のコロンビア戦に0対5で敗れたものの、2戦目のドイツ戦を9対7で制すると、3戦目の中国戦に12対2で快勝。本選出場決定戦でドイツを6対4で下し、全勝のコロンビアとともに、本大会行きの切符を手にした。

 本大会1次ラウンドは米国、メキシコ、イタリア、英国とともにB組に組み込まれ、現地3月6に初戦を迎える。対戦相手はいずれも強く、ブラジルが勝利するのは簡単ではない。ただ、ブラジル代表は若き才能を擁し、何よりも大きな野心を抱いている。23年にサンティアゴで開催されたパンアメリカン競技大会(南北アメリカ大陸の大会)で2位となり、ブラジル野球初のメダルを獲得したチームでもある。

 そんなチームを率いるのは史上初のブラジル人監督、松元ユウイチ。1980年にサンパウロの日本人コミュニティーで生まれ、2002年から15年まで、日本のヤクルトスワローズでプレーした。現役時代には2002年のインターコンチネンタルカップでブラジル代表として出場し、13年のWBCではブラジル代表のキャプテンを務めた。

  24年、松元のもとにブラジル野球ソフトボール連盟からオファーが届く。26年WBC予選に向けて、ブラジル代表監督のオファーだった。こうして彼はキャプテンとしてWBCを戦った後、今度は指揮官として大舞台に挑む。

「正直なところ、監督の方が選手時代より緊張します。ベンチにいると、ただ最善の結果を祈るしかないからです」

 松元は予選突破を決めたドイツ戦後に語った。

 これまでのWBCでブラジル代表は、アメリカ人監督を招聘してきた。13年と16年はバリー・ラーキン、22年はスティーブ・フィンリーだ。彼らはアメリカ球界のビッグネームであり、MLBの元オールスター選手である。しかし、彼らは偉大だったが、ブラジルとの結びつきはなかった。

 しかし松元は違う。彼は1世紀以上にわたりブラジルで野球を存続させてきた日本人コミュニティーを体現するような存在だ。ブラジルで野球を学び、祖父母や曽祖父母が日本から持ち込んだ伝統を受け継いできた世代で忍耐力、不屈の精神、愛情を示してきた。

 そんな象徴的な存在は松元だけではない。コーチ陣は、国際的な経験を持つブラジル人だけで構成されている。13年に松元のチームメイトだったレイナウド・ツギオ・佐藤。彼もまたヤクルトの選手(一軍出場はなし)だった。

 13年のブラジル代表投手クレベル・オジマもコーチ陣の一員だ。アンドレ・リエンゾは、MLBでプレーしたブラジル人選手のひとりであり、投手コーチを務める。15年にカンザスシティ・ロイヤルズでワールドシリーズを制したパウロ・オルランドが走塁コーチだ。

 彼らはブラジル野球を内側から理解し、日本人やアメリカ人、カリブ出身の選手が支配するスポーツにおいて、ブラジル人であることの意味を知っている。

(後編に続く)

文●リカルド・セティオン
翻訳●利根川晶子

【著者プロフィール】
リカルド・セティオン(Ricardo SETYON)/1963年8月29日生まれ、ブラジル・サンパウロ出身。ジャーナリストとして中東戦争やユーゴスラビア紛争などを現地取材した後、社会学としてサッカーを研究。スポーツジャーナリストに転身する。8か国語を操る語学力を駆使し、世界中を飛び回って現場を取材。多数のメディアで活躍する。FIFAの広報担当なども務め、ジーコやカフー、ドゥンガらとの親交も厚い。現在はスポーツ運営学、心理学の教授として大学で教鞭も執っている。

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配信元: THE DIGEST

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