いよいよ頂上決戦を迎えるのは春の選抜高校野球だが、高校生の夢が躍動する甲子園球場にはこれまで、様々な「事件の歴史」が積み重なっている。
それは1992年8月16日、うだるような暑さで迎えた夏の甲子園球場で「大事件」は起きた。
「高校生の中にひとりだけプロが混ざっている」と形容される怪物・松井秀喜を擁する星稜高校(石川)は、1回戦で長岡向陵(新潟)と対戦し、11-0で撃破。次戦の相手は高知の強豪・明徳義塾だった。
ところが明徳義塾の馬淵史郎監督がこの試合で選んだのは、松井の5打席全てで敬遠という、なりふり構わぬ「勝負回避」だったのである。
2回、3回、4回…試合が進むにつれ、異様な光景に殺気立つスタンド。7回裏には二死無走者の場面ですら敬遠である。そして9回裏、二死三塁、最後となる5度目の敬遠が決まると、球場は怒号と罵声に包まれた。
試合は3-2で明徳義塾が星稜を下したが、高校通算60号に王手をかけていた松井は結局、一度もバットを振ることなく甲子園を去った。アルプススタンドからは空き缶やメガホンが投げ込まれ、勝利した明徳義塾の校歌は、耳を覆いたくなるような「帰れ!」コールによってかき消されたのである。
試合後、松井は悔しさを押し殺しながらこう語った。
「野球らしくないとは思うが、歩かせるのも作戦ですから、自分がどうこう言えるものではありません」
一方で、明徳義塾の馬淵監督に対する、世間の風当たりは凄まじかった。評論家やOBからは「卑怯」「教育上よろしくない」との批判が相次ぎ、高野連の牧野直隆会長までもが記者会見を開いて苦言を呈する。
「無走者の時は、正面から勝負してほしかった。1年間、この日のためにお互いに苦しい練習をしてきたのだから、その力を思い切りぶつけ合うのが高校野球ではないか」
淵監督の宿舎には数千本もの抗議電話が殺到し、バッシングは身の危険を感じるほどだったという。ところがこの騒動に真っ向から異を唱えたのが、知将・野村克也だったのである。野村はこの敬遠を「卑怯」と断じる風潮を一蹴。
「ちょっと待て。それは野球の本質を見誤っているんじゃないか。野球は心理戦で、戦いの本質は騙し合い、弱点の探り合い。敵の心理を揺さぶる手法は恥ではない。松井ほどの打者なら敬遠されることを前提に、次打者をどう生かすかを含めた作戦を立てるべき。それが強者の宿命でもある」
もし自分が明徳の監督なら、どうしたか。そんな問いに対し、
「そりゃ、敬遠も含めていろいろ考えるでしょう」
勝利への執念が生んだ5連続敬遠を、プロの視点から「究極の戦術」として認めたのである。
後年、松井はメジャーリーグで、敬遠後に本塁打を放つ次打者の姿を見て「改めて勝負の世界の厳しさを噛みしめた」と語っている。勝負の世界には非情さと美学がつきものだということだろう。
名将が認めた世紀の敬遠策は単なる逃げなどではなく、怪物・松井秀喜という存在を世界に知らしめた「最大の敬意」だったのかもしない。
(山川敦司)

