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元F1ドライバーの“鉄人”ザナルディが59歳で死去 両足切断からパラ金メダリストに…歩んできた足跡に母国紙は哀悼「人生への愛と抵抗の象徴」

元F1ドライバーの“鉄人”ザナルディが59歳で死去 両足切断からパラ金メダリストに…歩んできた足跡に母国紙は哀悼「人生への愛と抵抗の象徴」

5月1日、イタリアが誇る不屈のアスリートが59歳でこの世を去った。元F1ドライバーで、後にパラリンピックの金メダリストとなったアレックス・ザナルディだ。

 イタリアのスポーツ紙『Gazzetta dello Sport』が「人生への愛と抵抗の象徴だった」と表現したザナルディ。1966年にボローニャで生まれ、カートからフォーミュラの世界へ進み、91年にF1デビュー。ミナルディ、ロータス、ウィリアムズなどで計44戦を戦った後、アメリカのCARTシリーズで才能を開花させ、97、98年に連続王者となった。

 しかし、ザナルディの人生を決定的に変えたのは、2001年9月15日のドイツ・ラウジッツリンクでの大事故だった。首位に立っていたレース終盤、マシンがピットアウト直後にコントロールを失い、コースを横切る形で停止。そこへアレックス・タグリアーニのマシンが高速で衝突した。体内には成人男性の5分の1にあたる1リットルほどの血液しか残っていなかったとされ、一時は終油の秘跡まで受けている。

 それでもザナルディは生還。4日間の薬物性昏睡、15度に及ぶ手術、そして両脚切断という現実を受け入れながら、再び前を向いた。03年には事故現場となったラウジッツリンクに戻り、特別に改造されたマシンで、あの日走り切れなかった残り13周を走破。その後もGTやWTCCでレース活動を続け、やがてハンドサイクルという新たな舞台へと進んでいく。
 『Gazzetta dello Sport』によれば、ザナルディはこの“第二の人生”を「事故は、別の人生では決して試す機会がなかったことをやらせてくれた」と捉えていた。07年のニューヨーク・マラソンでハンドバイクに挑戦し、11年には同大会で優勝。12年ロンドン・パラリンピックでは金メダル2個、銀メダル1個、16年リオ大会でも金2個、銀1個を獲得した。そして勝利以上に人々の記憶に刻まれたのは、どんな状況でもユーモアと笑顔を失わず、自らの限界を更新し続けた姿だった。

 しかし20年6月、チャリティーのハンドバイク・イベント中に再び悲劇が起きる。トスカーナ州ピエンツァ近郊で対向車のトラックと衝突し、頭部に重傷を負ったのだ。シエナ、レッコ、ミラノ、パドバの医療機関で治療とリハビリを続け、21年末には妻ダニエラさん、息子ニッコロさんの元へ戻ったが、健康状態は長く不安定なままだったという。

 晩年について同紙は、「ここ数年はパドバの介護施設に入所し、医師と看護スタッフが彼を支えながら、本人と家族にとって不可欠だったプライバシーも守られていた」と伝える。体調は悪化し、合併症も重なっていたが、それでも車椅子で外の空気を吸いに出ることもあったという。最期の日々は、妻と息子、近しい人々の愛情に包まれていたようだ。
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【記事】角田裕毅ではなくローソンがフェルスタッペンの後任か...メキース代表が株主から「かなりの圧力を受けている」と新報道 この偉大な“鉄人”訃報を受け、イタリアのジョルジャ・メローニ首相は「我が国は、偉大なチャンピオンであり、並外れた人間を失った。彼は人生のあらゆる試練を、勇気、強さ、尊厳の教訓へと変えられた」と追悼。「その成績、模範、人間性によって、我々に勝利以上のものを与えてくれた。希望と誇り、そして決して諦めない力を与えてくれた」と称えた。

 さらにF1のCEO兼社長ステファノ・ドメニカリ氏も、「親愛なる友人アレックス・ザナルディの死に深い悲しみを覚えている」と声明を発表。「人間としてもアスリートとしても、本当に人を鼓舞する存在だった。私は彼の並外れた強さを常に、胸に抱き続けるだろう」とし、「誰であっても立ち止まってしまうような試練に直面しながら、いつも前を向き、笑顔と頑固なまでの決意で私たち全員を奮い立たせた」と悼んだ。

 イタリア・パラリンピック委員会のマルコ・ジュニオ・デ・サンクティス会長も、「アレックスはスポーツ面だけでなく、メディア的にも、パラリンピックにとって極めて重要な人物だった。我々の世界に、最初の大きな推進力を与えた存在だ」とコメント。さらに、「彼は常に、全ての人の心に残る。パラリンピックの世界的な象徴であり、競技者としての資質を超えて、人間性、伝える力を備えた偉大なコミュニケーターだった」と、その功績を称えている。
  実際、ザナルディが変えたのは、競技成績だけではなかったようだ。『Gazzetta dello Sport』は、「彼がいなければ、パラリンピックは、今とは別のものになっていただろう。スポーツという行為を通じて、障害への見え方を変えた」と綴っている。ハンドバイクを一般家庭にも知らしめ、多くの人にとって身近な競技にした存在でもあったという。

 その象徴が、ザナルディ自身が立ち上げた「Obiettivo 3」だった。障害を持つ人々をスポーツへ導き、パラリンピックを目指す選手を育てるこのプロジェクトは、当初わずか5人から始まり、今では100人を大きく超える規模へ広がった。同メディアはこれを、「単なる自転車競技の支援に止まらず、アイデアと希望の実験室になった」と評している。

 ザナルディはかつて、「メダルやトロフィーを勝ち取るために練習したのではない。練習したから、メダルやトロフィーを勝ち取ったのだ」と語った。勝利ではなく、そこへ至る道のりを何より重んじた男。両脚を失った事故を「人生最大のチャンス」と呼び、悲劇を希望へ変え続けたザナルディは、スポーツの枠を超えて、これからも人々の心に生き続ける。

構成●THE DIGEST編集部

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配信元: THE DIGEST

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