振り返れば、田岡一雄三代目の時代から「山口組の保守本流」とされてきた山健組は、当局からのマークが特に厳しく、必要以上の弾圧に襲われてきた。ジャーナリストが言う。
「田岡三代目の懐刀として長く若頭を務めた山健組初代・山本健一組長は『田岡親分の日本一の子分』を自認。山口組の内政・外交の顔として組織を牽引したことから、山口組壊滅を標榜する当局から常に狙われていました」
76年3月には、恐喝や銃刀法違反、暴力行為など6つの罪状で、神戸地裁から懲役3年6月の有罪判決を受ける。大阪高裁に控訴した山本初代は、持病の肝硬変の治療を理由に保釈されるが、保釈条件である神戸市内の自宅兼事務所での定住を守らず、折からの「大阪戦争」で陣頭指揮を執った。そのうえ、78年に田岡邸で記者会見を開き、抗争の一方的終結を宣言したことが当局の逆鱗に触れ、保釈が取り消され、収監を余儀なくされた。その後82年に病状が悪化して死去。前年の田岡三代目死去に続く山健初代の急逝は、その後の後継者争いに端を発する山口組の大分裂を招くことになった。
武闘派の経歴から山健初代に信を置かれた初代竹中組・竹中正久組長が山口組四代目の跡目を継承すると、反主流派の直参が盃を受けることなく脱退して、一和会を結成。85年に竹中四代目が一和会の放ったヒットマンに暗殺されたことから史上最大の山一抗争が勃発する。
この抗争で若き指揮官として矢面に立ったのが、山健組二代目を継承していた渡辺芳則組長だった。渡辺組長は竹中四代目の死後、山口組若頭に就任すると、神戸市内のゴルフ場でプレー中にカタギの客とトラブルに巻き込まれ、秘書役が相手に暴行を加えたとして、共犯の疑いで逮捕されてしまう。
また山口組五代目に就任後の95年には、京都市の四代目会津小鉃傘下事務所前で、警戒中だった私服警官が、山口組の傘下組員により誤射され、死亡する事件が発生。最高裁が使用者責任を認め、渡辺五代目らに巨額の損害賠償が命じられることにもなった。
このように山健組の歴代トップには、「司法の呪縛」と言って然るべき、当局との闘争が降りかかってきた。

