翌20日には、与論島で震度5強の地震が発生、沖縄本島も震度3に見舞われたが、偲ぶ会は予定通り粛々と進められた。
この日は西日本の団体から弔問客が集まった。道仁会(福岡)・福田憲一会長、三代目熊本會・森原秀徳会長が姿を見せ、太州会(福岡・日高博会長)、五代目工藤會(福岡・田上文雄会長)からは最高幹部が相次いで到着した。
続いて八代目合田一家(山口)の新井鐘吉総長、五代目福博会(福岡)の光田孝会長らの一行が到着ゲートを出て、迎えの車に乗り込んだ。
午後になり、中四国の四団体が到着した。広島六代目共政会(荒瀬進会長)、三代目俠道会(広島・池澤望総裁)、五代目浅野組(岡山・中岡豊総裁)はトップみずからが最高幹部を率いて、二代目親和会(香川)は吉良博文会長の名代として、最高幹部が那覇空港に降り立った。各団体はそれぞれ、旭琉會の送迎車に乗り込み会場へと足を向けた。
この日最後の客人となったのは八代目会津小鉃(京都)・髙山誠賢会長であった。最高幹部らとともに弔問に向かった。
2日間で、全18団体に及んだ弔問客の一行は、沖縄ヤクザの系譜を継ぐ糸数会長の突然の他界を惜しみ、冥福を祈ったのだ。
あらためて沖縄ヤクザの歴史を振り返ると、まさに鮮血に彩られた激烈な抗争の連続であった。
那覇派・山原派と普天間派に分かれ、激しく激突していた1967年頃、のちに旭琉會初代となる富永清会長が山原派の一員として激戦に身を投じる。普天間派の首領が射殺され第3次抗争が終了してからも、山原派と那覇派が結束した沖縄連合旭琉会と、そこから離脱して山口組の代紋を掲げた上原一家の第4次抗争が勃発。抗争終結後の83年に翁長良宏会長を頂点にした三代目旭琉会が発足するも、理事長だった富永会長が脱退し、90年に沖縄旭琉会を結成。ここから第5次抗争に発展し、警官や一般人を含む死者7人を出す過激抗争となった。
約20年の時を経て、11年に四代目旭琉会(花城松一会長)と恩讐を超えた一本化を果たしたのが、富永初代だった。その富永会長が19年に逝去したことに伴い、22年に永山克博代表が暫定的にトップに就任。その後の25年2月、5年半ぶりに富永初代の跡目を糸数会長が継承したのだった。
跡目継承からわずか1年あまりでの急逝であり、その損失は計り知れない。
「旭琉會では1年は喪に服する期間に充てる予定のようだ」(地元関係者)
跡目の擁立はその先のことになると見られる。「戦後、沖縄ヤクザに平和な時代はなかった」と言われるほど、過激抗争を繰り広げてきた。それだけに、継承に慎重にならざるを得ないのだろう。

