
サンドロ・ボッティチェリ(1445〜1510)の名画『ヴィーナスの誕生』に描かれたヴィーナス。
そのモデルになったとされる女性が、15世紀フィレンツェで”比類なき美女”と称えられたシモネッタ・ヴェスプッチ(1453〜1476)です。
シモネッタは、ルネサンス期の理想美を象徴する人物として語られてきましたが、わずか23歳で早すぎる死を迎えました。
従来、その死因は結核だったと考えられてきました。
しかし今回、英ロンドン大学クイーン・メアリー校(QMUL)の最新研究によると、シモネッタの死は、下垂体腺腫(かすいたいせんしゅ)が急激に悪化して起きる「下垂体腫瘍卒中」によるものだった可能性があるというのです。
研究の詳細は2026年6月12日付で学術誌『Endocrinology, Diabetes & Metabolism』に掲載されています。
目次
- ルネサンスの理想美とされた女性、23歳での早世
- 「美の特徴」は病気のサインだった可能性
ルネサンスの理想美とされた女性、23歳での早世
シモネッタ・ヴェスプッチは1453年生まれで、ルネサンス期のフィレンツェを代表する美女として讃えられます。
旧姓はカッターネオで、1469年にフィレンツェの銀行家貴族の家系に連なるマルコ・ヴェスプッチ(探検家アメリゴ・ヴェスプッチの遠縁にあたる)と結婚しました。
フィレンツェの上流社会では、その美しさだけでなく、立ち居振る舞いや知性によっても知られていたとされます。
人文主義者ポリツィアーノは、彼女を「ラ・サン・パール」、つまり「比類なき女性」と呼びました。

また、シモネッタは、フィレンツェの支配者だったメディチ家のジュリアーノ・デ・メディチとも近い関係にあったとされます。
彼女の名をさらに有名にしたのが、ボッティチェリとの関係です。
シモネッタは『ヴィーナスの誕生』をはじめ、ボッティチェリ作品に登場する女性像のモデルになった人物と長く考えられてきました。
そのため彼女は、単なる歴史上の美女ではなく、ルネサンス美術における「理想の女性像」と重ねて語られてきたのです。
しかしシモネッタの人生は長くありませんでした。
1476年、彼女は23歳で亡くなります。
遺体は白い衣をまとい、顔を覆わない姿で人々の前に公開されたとされます。
これは当時、著名な人物に対する非常に高い敬意を示す扱いでした。
現在も彼女は、フィレンツェのオニサンティ教会に眠っています。
さらに後年、ボッティチェリは自らのミューズへの最後の献身として、彼女の足元に埋葬されることを望んだと伝えられています。
では、これほど人々に称えられた彼女は、なぜ若くして亡くなったのでしょうか。
従来は、肺結核が死因と考えられてきました。
しかし今回の研究は、シモネッタの最期の日々の記録や肖像画に残された特徴をもとに、まったく別の医学的説明を提示しています。
「美の特徴」は病気のサインだった可能性
研究チームが注目したのは、シモネッタの最期に関する書簡の記録です。
ピエロ・ヴェスプッチとロレンツォ・デ・メディチの間で交わされた手紙には、彼女が舞踏会の最中に倒れ、その後、暗い部屋で休んでいたことが記されているといいます。
そこで彼女は、激しい頭痛、幻覚、嘔吐、高熱に苦しんでいたとされています。
研究者らは、これらの症状が、下垂体腺腫の急激な増大によって起こる下垂体腫瘍卒中と合うと考えました。
下垂体とは、脳の底部にある小さな器官です。
体のホルモン分泌を調整する重要な場所ですが、ここに腺腫と呼ばれる腫瘍ができることがあります。
その腫瘍の内部で出血や梗塞が起こると、腫瘍が急激に腫れ、強い頭痛や嘔吐、視覚異常、意識の変化などを引き起こすことがあります。
これが下垂体卒中と呼ばれる医学的緊急事態です。
チームは、シモネッタが以前から下垂体腺腫を患っており、それが最終的に急激に悪化した可能性を考えています。
この仮説を支える材料として、研究者らは肖像画にも注目しました。
たとえば、ボッティチェリの『女性の寓意的肖像』には、シモネッタをモデルとする女性が乳汁を分泌しているように描かれているといいます。
しかし、シモネッタには子どもがいなかったことが知られています。
研究者らはこれを、プロラクチンというホルモンの過剰による乳汁分泌の可能性として解釈しています。

さらに、成長ホルモンも関係する腺腫であれば、顔立ちに変化が現れる可能性もあります。
チームは、シモネッタを描いたとされる5点の肖像画に、事前学習済みの深層学習モデルに基づく顔認識アルゴリズムを用い、この診断の可能性を検討。
また、『ヴィーナスの誕生』に見られる目の位置のずれ、いわゆる「ヴィーナスの斜視」も、下垂体腫瘍によって生じた可能性があるとしています。
下垂体は視神経や眼球運動に関わる神経に近いため、腫瘍が大きくなると、目の動きや視覚に影響することがあるからです。
さらに著者らは、舞踏による身体的負荷などが、発作的な悪化を引き起こした可能性にも触れています。
ただし、この研究は現代の患者を直接診断したものではありません。
MRI画像も血液検査もなく、残されているのは歴史資料と肖像画です。
そのため今回の説は、死因を確定するものではなく、従来の結核説に代わる医学的仮説と見るべきです。
それでもこの研究は、ルネサンス美術の中で称えられてきた「美しさ」の一部が、実は病気の徴候だったかもしれないという、意外な視点を与えてくれます。
名画の中のヴィーナスは、理想の美の象徴として今も世界中で見つめられています。
しかしその背後にいたかもしれない一人の女性の体には、当時の誰にも理解できなかった異変が起きていたのかもしれません。
シモネッタの死の謎は、500年以上を経た今もなお、美術史と医学をつなぐ問いとして私たちの前に残されているのです。
参考文献
New theory over mystery death of Botticelli’s Birth of Venus model, Simonetta Vespucci
https://www.qmul.ac.uk/news/latest-news/2026/medicine-and-dentistry/fmd/new-theory-over-mystery-death-of-botticellis-birth-of-venus-model-simonetta-vespucci.html
A new explanation for the mystery death of Botticelli’s Birth of Venus model, Simonetta Vespucci
https://phys.org/news/2026-06-explanation-mystery-death-botticelli-birth.html
元論文
Pituitary Tumour Apoplexy as Cause of Death of Simonetta Vespucci, the Venus by Botticelli
https://doi.org/10.1002/edm2.70261
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部

