“バスケットボールの神様”と呼ばれるマイケル・ジョーダンは、2度の引退を挟んで40歳まで現役を続けた。生粋の負けず嫌いとしても広く知られる中で、ノースカロライナ大の後輩であるラシード・ウォーレス(元ポートランド・トレイルブレイザーズほか)が、初めて対戦した時のことを回想している。
1984年のドラフト全体3位指名でシカゴ・ブルズに入団したジョーダンは、類まれな身体能力を活かしたプレーでリーグを席巻。91~93年、96~98年にブルズを2度の3連覇に導き、そのすべてでファイナルMVPを受賞した。
史上最多となる得点王10回、歴代トップの平均30.1点、88年には最優秀守備選手賞にも輝き、NBA50周年記念オールタイムチームとNBA75周年記念チーム選出、バスケットボール殿堂入りなど、その実績と影響力はファンのみならず選手たちも憧れるものだった。
95年のドラフト全体4位指名でワシントン・ブレッツ(現ウィザーズ)に入団し、2013年の引退まで計1109試合に出場したウォーレスは、カーメロ・アンソニー(元デンバー・ナゲッツほか)のポッドキャスト『7PM in Brooklyn with Carmelo Anthony』で、初めてジョーダンと対戦した日のことを振り返った。
「ルーキーの時、初めて彼(ジョーダン)と対戦した時のことは忘れもしない。俺は舞い上がっていたよ。『身長211cmもあるし、跳べるし、身体能力も高い。このオッサンくらい守れるだろ』なんて思っていたんだ」
しかし、当時32歳のジョーダンは、21歳のウォーレスに厳しい現実を突きつけた。96年1月15日の対戦、ジョーダンはゲームハイの46得点を叩き出したのだ。「彼は俺を見てこう言った。『若造、お前に俺は守れない。今から俺が何をするか、正確に教えてやるよ』とね。彼はウイングでボールを持つと、ジャブステップをひとつ踏んで言った。『右に行くぞ』。宣言通り右にドライブして、プルアップジャンパーを放った。ボールが空中にある間、リングを見ることさえしなかった。ボールがネットを通過するまで、ずっと俺の目を見ていたんだ」
さらに、ウォーレスにとっての悪夢は続いた。
「次のプレーで、彼はこう言った。『次は左だ』。左に動いて、フェイダウェイシュート。また決まった。その次のプレーでは、『次はリムまで行くぞ』と言い、そのままドライブして、俺を抜き去ってダンクを叩き込んだ。彼はこれからやることをすべて俺に予告した。そして俺は、そのどれひとつとして止めることができなかったんだ」
当時、ジョーダンは1度目の復帰後、初のフルシーズンで平均30.4点で得点王に輝いた。10歳以上年下のウォーレスは格の違いを肌で感じたという。
「その時に悟ったよ。『こいつは別格だ』とね。噂で聞くのと、実際に目の前で『今からこう動くぞ』と宣言されて、それでも決められるのを体感するのとでは訳が違う。あれこそが本物の凄みってやつさ」
新人のウォーレスにとっては、“NBAの洗礼”であると同時に、ジョーダンが「史上最高」と称される理由を身をもって知る一夜となった。
構成●ダンクシュート編集部
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