
日本戦で見せた采配の真価。ブラジルの指揮官アンチェロッティ。その笑顔の奥には、恐ろしく老練な勝負師がいる【W杯】
北中米W杯のラウンド32で、日本は“サッカー王国”ブラジルを相手に先制に成功した。しかし、ブラジルは後半に試合をひっくり返す。90+5分、ガブリエウ・マルチネッリの劇的な決勝ゴールでベスト16進出を決めた。
逆転劇の中心にいたのが、ブラジル代表を率いるカルロ・アンチェロッティ監督だった。人心掌握に優れた名将として知られる一方で、試合中に大胆な戦術変更を施し、流れそのものを変えてしまう戦術家でもある。選手たちは、なぜこのイタリア人指揮官のために走るのか。そして、日本戦で見せた采配の真価とは何だったのか。
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遅刻したジョー・コールは、覚悟を決めていたという。
アンチェロッティがチェルシーの監督に就任して間もない頃のことだった。クラブで食事会が開かれることになった。新監督が選手たちを集める、いわば最初の親睦の場である。ところが、コールはその大事な会に遅れてしまった。
しかも会場に着くと、空いていた席は1つだけだった。新監督のすぐ隣である。
「しまった...。これから2時間、監督の隣だ。しかも遅刻までしている。本当にやばいな」
元イングランド代表MFは、当時をそう振り返る。ところが、椅子に腰を下ろすと、アンチェロッティ監督はいきなりリモンチェッロ(Limoncello)のボトルを取り出した。
リモンチェッロとは、アンチェロッティの母国イタリアのカンパニア州(ナポリやカプリ島、アマルフィ海岸など)を発祥とするレモンリキュールである。そして、ショットを次々と注いできた。
「心配するな。大丈夫だ」
アンチェロッティ監督は笑みを浮かべていたという。食事会が終わる頃には、2人はまるで親友のようになっていた。元イングランド代表FWのガリー・リネカーが「完全に懐柔されたんだね」と笑うと、コールも笑った。
「カルロは、本当に素晴らしい人なんだ」
この逸話には、アンチェロッティ監督の人格がよく表われている。選手と距離を縮め、肩の力を抜かせ、いつの間にか自分の側へ引き寄せる。だからこそ、コールは今回のW杯でもブラジルを優勝候補に挙げた。その理由を問われ、迷わず答えた。
「やっぱり、カルロがいるからです」
ブラジルが日本を2-1で下した一戦も、まさにその「カルロがいるから」を示す試合だった。
前半のブラジルは苦しんだ。日本はコンパクトな守備で中央を閉じ、ブラジルの攻撃陣にスペースを与えなかった。ヴィニシウス・ジュニオールは冨安健洋と堂安律に封じ込まれ、カゼミーロは佐野海舟にあっさりとかわされて先制点を許した。特にこの34歳のベテランMFは動きの重さを隠せず、警告も受けていた。普通なら、ハーフタイムで交代を考えてもおかしくない。
だが、アンチェロッティ監督はカゼミーロを残した。
後半、ブラジルは戦い方そのものを変えた。負傷の影響があったルーカス・パケタに代えてエンドリッキを投入し、ヴィニシウスにはより左のワイドに張るよう求めた。
65分にはマルチネッリがピッチに立つ。本来はウイングだが、左インサイドMF、つまり左の8番に置いた。そしてCBのガブリエウ・マガリャンイスらが、日本陣内へとクロスボールを畳み掛けるように入れた。クロスの狙いは、日本の両ウイングバックのいるファーサイドだった。
後半だけでブラジルが入れたクロスは28本。平均すれば2分に1本に迫るペースだ。
狙いは56分に実を結ぶ。ガブリエウのクロスに、カゼミーロがファーポストで合わせた。前半は足かせのように見えたベテランが、後半にはペナルティエリア内の“武器”として蘇った。
アンチェロッティ監督の妙は、ここにある。
選手を信じる。選手が力を発揮できる配置を作り直す。マルチネッリを単なるウイングとしてではなく、左のハーフスペースから飛び込ませる。マルチネッリは、所属先のアーセナルでインサイドMFとしてプレーしたことはない。
元アイルランド代表MFのロイ・キーンは、日本戦後にアンチェロッティ監督の手腕をこう評した。
「途中出場の選手たちが、ベンチから出てきた時に『よし、試合を変えてやろう』と思っている。大物選手の中には、途中出場を命じられると不満そうに出てくる選手もいる。ふてくされたような態度を見せる選手だっている。
でもアンチェロッティは、そういう空気をチームの中に生まれさせない。それが監督としての強みなんだ。途中出場した選手たちは、『どう試合に影響を与えようか』と前向きに考えている」
オーストラリア代表やセルティック、トッテナムを率いた経験を持つアンジェ・ポステコグルーも同じ点を見ていた。
「監督は時に選手を信頼する必要がある。『行ってこい。君たちは何をすべきか分かっている』。そう送り出すんだ」
そして、こう続けた。
「攻撃的な選手たちをピッチに送り込みながら、細かな指示を押し付けるわけではない。彼らが自分たちで決定的な瞬間を見つけるのを待つ。まさにその通りになった」と。
後半アディショナルタイム、田中碧が自陣ペナルティエリア際でボールを失った。ブルーノ・ギマランイスが冷静に待ち、左へ流す。そこにいたのがマルチネッリだった。アーセナルで左ウイングとしてプレーする男がゴール前に現われ、決勝点を叩き込んだ。
戦術家としての冷静な眼と、人心掌握の名人としての温かさ。その両方を、これほど自然に併せ持つところに、アンチェロッティ監督の独自性がある。
あの決勝ゴールが決まった時でさえ、ほとんど動じなかった。ポステコグルーは、その冷静さにも触れている。
「本当に驚くほど冷静だ。でも彼は理解している。どんなに混乱した状況でも、試合はまだ終わっていない。まだ決着していないことが残っていると」
レアル・マドリーの監督時代には、チャンピオンズリーグ優勝後、ヴィニシウスらと一緒に踊るおちゃめな姿も見せた。チェルシーでは遅刻したコールに酒を注ぎ、ブラジルではベンチの攻撃陣を前向きな気持ちで送り出す。柔らかく、温かく、時にひょうきんでさえある。
だが、その笑顔の奥には、恐ろしく老練な勝負師がいる。
前半は明らかに日本のゲームだった。それでも、アンチェロッティ監督は慌てなかった。攻撃の形を変え、配置を組み直し、カゼミーロを信じた。そして最後は、途中出場のマルチネッリが試合を決めた。
日本戦後、英BBC放送はこう伝えた。「“老獪なカルロ”がまたやってのけた」。
人をその気にさせる力と、試合を読み替える力。カルロ・アンチェロッティとは、その2つを同時に持つ、稀有な名策士である。
文●田嶋コウスケ
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