サウナブームだと言われて久しいが、日本にサウナを広めた人物を知っているだろうか。
江戸時代中期、宝暦元年(1751年)生まれの大黒屋光太夫だ。今の三重県鈴鹿市の港を拠点とした海鮮問屋の船頭だったが、天明2年(1782年)、江戸に向かう途中に船が嵐に遭遇し、そのままアリューシャン列島のアムチトカ島(アメリカ・アラスカ州)まで漂流した。
島でロシア船に助けられて本国まで連れていかれるが、そのままロシアに滞在し、ロシア帝国の女帝エカチェリーナ二世に帰国を願い出た。ところが、許可が出たのは10年後の寛政4年(1792年)だった。
送還のため用意されたロシアの遣日使節アダム・ラスクマン一行の船に乗り、北海道の根室に到着したが、当時の日本は鎖国中。江戸幕府内で喧々諤々の議論があり、手続きは一向に進まない。さぞイライラしたことだろうが、ラスクマンや光太夫は根室で厳しい冬を過ごすことを余儀なくされた。
寒さ対策のため、当時ロシア帝国領だったフィンランドにルーツを持つラスクマンが海岸に建てたのがサウナだった。これが日本国内で最初のフィンランド式サウナとされている。
幕府の取り調べを受けた末に江戸へ送還
光太夫とラスクマンは男と男、裸の付き合いをしながら正式に帰国の許可を待ち、その後に江戸へ送られた。光太夫に対する幕府の取り調べや蘭学者とのやり取りなどをまとめた「北槎聞略(ほくさぶんりゃく)」にはサウナの記述が残っている。これが後の世に広まった。
通常、海外から帰国した者は厳しく取り調べられ、原則として自由な行動や帰郷は許されない。鎖国破りは国禁で厳罰の可能性があったが、幕府は光太夫が持つ「生のロシア情報」や「ロシア語の能力」を利用し、今後の対ロシア外交・海防政策に生かそうと考えていたようだ。
取り調べはあったものの、江戸の番町の楽園に屋敷を与えられて生涯の扶持(給与、生活費)を用意してもらい、なんとか生計を立てられたという。幕府の監視もなく蘭学者との付き合いが許され、出歩くこともできた。
サウナ後の「ととのう」という言葉は常識となっているが、もし光太夫が漂流しなければ、日本のサウナブーム到来は遅れていたか、なかったもしれない。
(道嶋慶)

